今年5月。ひとりの若手女子レスラーが、ネットの誹謗中傷にさらされて亡くなった。一方、今とは比べものにならないほど熱狂的なブームの最中に、“悪役”を一身に背負っていたレスラーがいる。彼女はなぜ、いまだにリングから降りようとしないのか。彼女の原動力とは、一体なんだったのか―。“女”を描かせたら日本一の作家が、彼女の本質に挑む。時間無制限一本勝負のゴングが鳴った!彼女はなぜ、現役かつ悪役であろうとし続けるのか―。一大ブームの立役者に、気鋭の作家・岩井志麻子が迫った!

あのダンプ松本が還暦

 令和2年8月9日。炎天下の、そして非常事態といっていい状況下での新木場の会場。

 女子プロレス界の現役にして伝説のダンプ松本が主催する、かつては仇敵、今は盟友の長与千種との、デビュー40周年記念大会が開催された。静かに、粛々と。

 新型肺炎感染の恐れがなければ、観客ももっとぎゅうぎゅう詰めで、飛び交う歓声も紙テープもすごかっただろう。けれどその、緊張感がありつつも落ち着いたのどかな雰囲気も、それはそれで始まる前から祝賀気分にはなれた。

「みなさんとこの日を迎えられて、うれしいです」

「本当に、来てくれてありがとうね」

 稀代の悪役レスラー、ダンプ松本。本人曰く、あの女子プロレスブームの中でも1人のファンもなく、日本中から嫌われた悪の権化。

 しかしダンプ松本のイベントに喜んで来る観客は、ダンプさ~ん、とはしゃいでいる。

 1度は引退したものの、またリングに戻った唯一無二の悪役ダンプ松本は、今日はあの恐ろしい毒々しい隈取りメイクもせず、トゲトゲのついたハードな革ジャンもまとわず、愛嬌ある童顔にみんなとそろいのTシャツでにこにこしながら受付に座っている。

 改めてこの催し物のチラシ、ポスターなどを見て、いろんな感慨に耽るのは当のダンプさんたちだけではない。ともに青春時代を過ごしたファンたちもだ。

 ダンプ松本としてリングでデビューし、実に40周年を迎える今年は、ダンプさんが還暦を迎える年でもあるのだ。何重にも、おめでたい。

 あのダンプ松本が還暦。60歳。何がすごいって、今も現役でリングに立つこともだが、今も日本一の悪役であり続けていることだ。ダンプ松本といえば、悪役。悪役といえば、ダンプ松本。これは40年間、不動なのだ。

 ここも重要だが、稀代のレスラーでありながら、「悪役レスラー」ではなく、「悪役」というだけでダンプ松本を指してしまえるなんて、他に類を見ない。

 正直、女子プロレスに熱狂したことはない。テレビでは見ていたが、ダンプさんと仕事の場で出会わなければ、会場に足を運んでリング脇で観戦することはなかっただろう。

 だから、女子プロレスのあの時代、ダンプ松本が暴れまわった時代はすごいのだ。たとえば本だって、普段は読書をしない層が買うからこそベストセラーとなるように。

 ダンプさんと同世代の女子ならば、特別に女子プロレスに興味がなかったのに女子プロレス人気を記憶し、人気レスラーたちは青春時代の彩りとなっているのだ。

 月日は流れ、こんな事態を誰も予想できなかった令和の世。今はどの会場も満員は避け、人と人との間を取り、唾液が飛ぶ行為は控えなければならない。

 だからプロレス会場にふさわしくない、自粛と遠慮の中で祭りは始まったが、贔屓のプロレス団体のおそろいのシャツを着たり、好きな選手の顔をプリントしたマスクや団扇を準備してきたファンたちの内心の熱気は、ソーシャル・ディスタンスを超えてきた。