優等生から不良グループへ

 三宅さんは1971年、新潟市で生まれた。地方銀行に勤務する両親、父方の祖母、11歳上の姉と5人家族。姉は高校を卒業して上京、両親は家にいないことが多かった。

「家族団欒とか、家族みんなで過ごした記憶があまりないんです。母が出勤する前に私がワーッとしゃべりかけるんだけど、もう行かなきゃと聞いてもらえない。だから、自分の話は聞いてもらえる価値がないという思い込みみたいのがずーっとあって、今でも自分の話をするのは苦手なんですよね」

 両親が多忙だったのは、仕事のためだけではない。母は銀行での男女の賃金格差是正を求めて裁判を起こして勝訴。その後、父が定年制延長裁判を起こし、11年にわたって闘った末に敗れた。三宅さんが幼いころから家には裁判を支援する仲間が集まり会議をしていることが多かった。

不良グループで非行を繰り返していたころの三宅さん
不良グループで非行を繰り返していたころの三宅さん
【写真】廣瀬社長や社員たちと、笑顔で食卓を囲う三宅さん

 小学生のときは学級委員長を任される優等生だった三宅さん。中学生になると一変し、不良グループに入って遊び回るように。

「単純に憧れですね。カッコいいから。お酒、タバコ、夜遊びとか覚えて、楽しいー! みたいな」

 両親への反発もあったのではと聞くと、三宅さんはしばらく考えてこう答えた。

亡くなった両親のことは今でも世界一、尊敬しています。あんなに自分たちの時間とお金を使って裁判をしていたのに、自分たちのためではない。困っている人がいるからという理由でやっていたんです。でも、自分はそんなふうにはなれないという、焦りみたいなものは、ずーっとあったんですよね。それと、ずっとかまってもらえなかったという恨みもあったんでしょうね」

 父の裁判が始まり家の中がピリピリしてくると、三宅さんの非行もエスカレート。万引き、窃盗、暴行、バイクの無免許運転……。父に怒られると家出をして、5歳上の彼氏の家に逃げ込んだ。

 荒れる三宅さんを受け止めてくれたのは、中学3年時に担任だった大滝祐幸さん(68)だ。家出した三宅さんを探して連れ戻し、気持ちが落ち着くまで1週間近く、自宅で預かったこともあると話す。

 中3の秋、クラスで事件が起きた。登校すると1人の男子生徒の机がない。全員で学校中を探したがどこにもなかった。

 卒業して10年後。大滝さんの家に遊びに来た三宅さんが、こう告白したそうだ。

「あれは私が信濃川に捨てた(笑)」

 机の中には教科書などがぎっしり詰まり重たかったが、朝早く登校して学校の近くを流れる川まで運んで投げ捨てたと聞いて、大滝さんは驚いたという。

「ある日、自分の机が倒れて教科書がバラバラに落ちていて、その男子が蹴飛ばしたと知って頭に来たからだと言っていましたよ。日ごろからバチバチやっていたようです。

 わが家では晶子のことを“規格外”と呼んでいるんです。ビックリするようなことも、思いついたらやってしまう。今の仕事を始めたのも予想外でしたが、昔から全然変わらないですね。意志が強くてクールなんだけど、ハートは常に熱いんですよ

 大滝さんは進学するつもりのない三宅さんを説得し、私立高校に入学させた。

 だが、三宅さんは「面白くない」と学校には行かず、家へも帰らずに喫茶店でアルバイト。1年の夏休み明けに退学になる。

 父に連れられて当時、入院中だった母に、退学の報告に行った。

「なんで?」

 そうつぶやき、さめざめと泣く母親を見て、三宅さんの脳裏に浮かんだものがある。

なんか、真っ黒い大きなグラフみたいのが見えて。それが右肩下がりにストーンと落ちている。それで、私の人生は、今、すごく落ちているんだなと実感したんです

 母が入院したのは、居眠り運転をして大ケガをしたからだ。自分が心配をかけたせいで夜も眠れなかったのだろうと思い、申し訳なさでいっぱいになった。

 そしてその夜、こう決意する。

「これまでの人生をネタにかえよう」

 思い描いたのは、大勢の人の前で講演をしたり自伝を書いている未来の自分だった。