元同僚に売られたケンカを今も……
'15年7月。三宅さんは受刑者などの就労支援をする会社を立ち上げた。社名の『ヒューマン・コメディ』には「誰かを笑顔にして、最期は自分も笑って死ねるように生きる」という意味が込められている。
会社の登記日は美香さんの誕生日にした。
実の親に「死ね!」と言われ続けてきた美香さん。
「自分なんか生まれてこなければよかった」
そんな思いを今も抱えている。だからこそ、三宅さんは毎年、設立記念日に従業員とみんなで一緒に美香さんの誕生日も祝い、「生まれてきてくれてありがとう」と伝えたかったのだという。
三宅さんの深意を知り、美香さんも変わりつつある。
「昔ほど誕生日が嫌いではなくなったかな。好きではないけど」
三宅さんが受刑者支援をする裏には、美香さんの存在があるのは確かだが、実は、それ以外にも理由がある。
前の会社を辞めるときのこと。送別会の席で、ある社員が「うつ病で復職する社員の世話係を命じられた」という話をすると、別の男性が吐き捨てるように言った。
「よく引き受けるね。俺だったら、絶っ対、ヤダね!」
その言葉を聞いて、三宅さんは頭に血が上り、口論になった。どうにか気持ちをおさめて解散したが、ワンワン泣きながら家まで帰った。
「私だって、うつ病で休職したとき、みんなが受け入れて、できるようになるまで待ってくれたから今がある。なのに、レールをはずれて戻ってこようとしている人に対して、そんなことを言うのは、冷たい社会の縮図のような気がして……。あのときのことを思い出すたびに、彼をぶん殴らなかったことをずーっと後悔していたんです。まあ、殴るのは犯罪だとかは、さておき(笑)。
今になって、自分はこの仕事をすることで、あのとき売られたケンカをずっと買い続けているんじゃないかなって思うんですよね」
最初は今のような求人誌ではなく、有料の職業紹介事業としてスタートした。営業先の会社に「元受刑者を雇ってくれないか」と話してみたが、結果はさんざん。
「一体全体、何を言っているんですか?」
「その人が何かやらかしたら、どう責任を取るんですか?」
理解のある会社が見つかり雇ってもらえても、すぐに辞めたり、行方不明になってしまい、謝罪に回る日々。
「私が面談して、この人なら大丈夫だとお墨つきをつけた人たちが、もれなく(笑)」
その当時のことを三宅さんは「光の見えないトンネルをずっと歩いているような感覚だった」と振り返る。行き止まりなんじゃないかと、内心は焦りと不安でいっぱいだったとも。
それでも、三宅さんは歩みを止めなかった。どうしてなのかと聞くと即答した。
「ずっと困っている人のために社会活動をしていた両親の背中を見ていたし、自分はそんなパパとママの子だから、絶対、大丈夫だと思っていました。何か糸口があると信じていたし、私がヒューマン・コメディを続けて誕生日を一緒に祝うことが、美香への愛だと思っているので、絶対、続けるんだと」
希望の光は思わぬところから差してきた。ある日、訪れた協力企業で工業高校向けに制作を始めた求人誌を目にして、ひらめく。
「ウチもこんなの作ったらどうだろう」
すぐに求人誌作りに方向転換。法務省に足を運び、刑務所などに求人誌を置く許可も得た。
ところが、創刊号が完成する前に資金が枯渇─。
「退職金とマンションを売ったお金を会社の資本金にしたんですが……。瞬く間に使い切りました(笑)。
すごく不安で、どうしようとなったときに、ああ、私はこの会社から報酬を得なければいい。求人誌は掲載料の範囲で作って、自分は納棺師で生計を立てればいいんだ。そう思うようになったら、気負いがなくなったし、覚悟が決まったんです」
まだトンネルの真っただ中にいたとき、三宅さんは講演に呼ばれた先で納棺師の女性と知り合った。「あなたのようにちょっと道をはずれた人は、度胸があって共感力が高いから向いている」と誘われて、弟子入りしていたのだ。
「根底にあるのはヒューマン・コメディと一緒です。笑って死んでほしいなって。納棺のとき私が整えたお顔を見て、ご遺族が“笑ってる”と涙を流して喜ばれるのを見ると、本当に感動します」