7メートルの津波に襲われた街には…

福島県南相馬市、地元の消防士は「まだ遺体が残ってるけど、探し出すのは簡単じゃない」(2011年3月12日)
福島県南相馬市、地元の消防士は「まだ遺体が残ってるけど、探し出すのは簡単じゃない」(2011年3月12日)
【写真70枚】遺体の見つかった家や車には「×印」が

 午後3時、福島県南相馬市に入る。海岸沿いの1800世帯が流され、壊滅的なダメージを受けた街だ。あったはずの集落は跡形もない。地元消防団員は、

「まだ遺体が残っているけど、一面に広がる海水と木屑の干潟から、捜し出すのは簡単じゃない」

 と、ため息混じりに話した。ここに住んでいた40代トラック運転手は、

住宅や防風林があって海は見えなかったのに、一瞬にして景色が変わっちまった。そこらじゅうに遺体がまだ沈んでいる。

 地震が起きたとき、俺はトラックを運転中だったんだけど、対向車が道の上でポンポン跳ねてるのよ。しばらくしたら海のほうに白いシブキが見えて。それが津波で、次第に近づくから急いで陸地に逃げたんだよ」

 そう話し、避難所に戻って行ったのを見届けると、今度は男性3人組が海の方へ力なく無言で歩いていた。

「大津波警報が出てるぞー! 海には近づくなぁー!」

 作業服姿で重機を操縦する男性が、3人組に声をかけるが、全くふり向こうとせずに、黙々と海に向かう。まさに茫然自失。自らの住まいがあったであろう場所に佇み、何かを探しているようだった。

「防波堤があったんだけど、意味がなかったみたい。防波堤ごと、(津波)が持ってっちゃったんだ」(作業服の男性)

若い夫婦と2人の子どもが笑顔で写った年賀状の送り主は静岡県、あて先は小高町だった(福島県相馬市、2011年3月12日)
若い夫婦と2人の子どもが笑顔で写った年賀状の送り主は静岡県、あて先は小高町だった(福島県相馬市、2011年3月12日)

 畳、自転車、ホース、テレビ……。瓦礫の中に、わずかながら、地震前の生活の様子を垣間見ることができた。

<あけましておめでとうございます。今年もよろしく。GWに家族でディズニーシーへ行きました>

 家族4人が笑顔を浮かべた年賀状が埋まっていた。受け取り主は、どこかに避難できたのだろうか……。

 午後4時30分、南相馬市の避難所のひとつ、小高工業高校に行くと、給水車に行列ができていた。“安否確認掲示板”と書かれた、大きな紙が貼り出され、《避難所を移動しました》《まだ連絡が取れません》など、おびただしい書き込みが。

 避難所で生活している人がいる一方で、避難が困難な被災者の姿もーー。南相馬市役所には、パイプイスに座り机につっぷしているひとりの年配女性がいた。

「避難所が空いてないから……。何か原発も危ないみたいだけど、まだそこまで考えられないですよ」

 寝泊まりできるスペースがないため、市役所の駐車場で車中泊する被害者もいた。我々も同じようにして夜を明かそうとするが外気温0度。凍てつくような寒さ。ほとんど眠れないまま、日の出と同時に、さらに北へ向かう。