今後の生き方を考えた「モスクワ時代」

 モスクワには、収入の低い近隣諸国からの出稼ぎ女性が集まっていた。カメラが趣味の坂本さんは時間があれば、観光地に撮影に出かけたが、若い女性が路上に立ち、男性たちに次々と話しかけられては、最後に話しかけた男性とその場を去る光景を幾度も目にしている。坂本さんは滞在のなかで自分なりに情報を集め、ロシア社会を分析した。

「モスクワは人身売買ルートの中継点でもあり、人身売買被害者が集まる目的地でもあります。例えばソ連崩壊後、経済的に破綻した旧ソ連諸国では大人が出稼ぎで国外に出て、国内に取り残された子どもが孤児となり社会問題となりました。多くの孤児は孤児院に入ったが、一定の年齢で施設を出なければならない。

 ところが、孤児院の関係者と人身売買組織がつながり、その子の退所時にリクルーターが“いい仕事があるよ”と声をかける。選択肢のない子どもはそのような誘いを頼らざるをえず、結局は売春宿に送られるケースもあります

 孤児である彼女たちの姿が消えても、探しにくる人間はいない。

「生きるために、自分の意に反して性産業に従事せざるをえない女性は多かったはず。

 僕が忘れられないのは、まだ7~8歳の子どもたちが汚れた格好で、まずそうな顔でタバコを吸っていた光景です。そういう子どもたちは、両親ともアルコール依存とか夫婦間のDVなどで家庭崩壊した被害者です。搾取の対象にされるのは間違いないと胸が痛くなりました

南米・コロンビアなどへの短期出張も多く、休日になるとさまざまな街へ足を延ばした
南米・コロンビアなどへの短期出張も多く、休日になるとさまざまな街へ足を延ばした
【写真】坂本さんが配布するカイロに付ける「お話しを聞かせてください」のメッセージ

 ホンジュラスでは、同じような問題に「自分の手のおよぶところではない」と思った。だがロシアでの見聞は坂本さんの意識を変えた。

「モスクワ滞在中、今後どうやって生きるか考えたんです。僕は人身売買、性的搾取、自分の意に反して性産業に従事せざるをえない女性たちのことがどうしても気になった。それは、僕のなかではあまりにも悲惨で触れたくない問題でした。でも、触れなきゃと思った。今後は会社で働きながらも、彼女らと関わる方法を探そうと思ったんです」

 そして、ロシアの離任前に、そういう女性たちを支援する組織が日本にもあると知り、坂本さんは海外から寄付者としてのサポートを開始した。

 '07年3月に帰国。すると、坂本さんに「3か月だけ応援勤務を」との社命が下り、8月には中国の北京市の日本大使館の警備業務に赴くが、出張から駐在に変更となり、4年7か月を過ごした。

 ここでも同じ問題を見た。例えば、特定のカラオケバーに女性たちが集まるなどの組織的な性搾取の情報を知るにつけ、「もう、見る、聞く、寄付するだけではなく、自らこの問題と関わろう」と決めたのだ。それは、「会社にとどまるべきか」を逡巡する毎日の始まりでもあった。

会社への不満はありませんでした。給与も悪くはないし、多少は評価もされていると感じていましたし。でも、それと自分の幸せとは別問題。このままでは、この世を去るときに“いい人生だった”と言えなくなるのではと思ったんです

 '12年3月に中国から帰国。翌年10月末に退職した。

 前出・田口さんはこのころのことを覚えている。

「ちょうど坂本さんの昇進が決まった直後でした。本社に行けば課長代理、支社でも営業部長のポストが約束されていたんです。人事部でも“なぜ辞めるのか”と話題になっていました。そのとき坂本さんはこう言ったんです。“辞めたくはない。この会社は大好きだ。でも、これ以上年を重ねる前にやらなきゃいけないことがある”って」