クーデター事件に巻き込まれて逮捕

 高野山大学卒業後は、すぐに真言行者への道を歩むことはせず、東京にいた兄を頼って上京。パイロットや作詞家、新聞記者などの道を模索しつつ、印刷会社で働いたことも。1度、高野山に戻り、教学や作法などの習得に励むが結局、約半年後に鹿児島に戻った。

「実家の寺に戻ってからは、午前中は護摩行を勤めた後、護摩壇を清掃し、法具を磨き、山へ入って護摩行に使う護摩木をつくるという代わり映えのない毎日を送り、護摩行にも身が入っていませんでした。

 そうした心が定まっていない私を見かねた母から“お前の行はメッキにすぎん、点数をつければ、50~60点だ。もっと性根をすえてやらねば”と叱責され、私の気持ちはますます鬱屈としていきました」

 時代は'60年代初め。世間は安保騒動で騒然とし、学生を中心とした共産主義者の安保反対運動は日に日に激しくなっていた。

 池口は自身の鬱屈とした現状と連動するような世の中に対し、「もし日本が共産主義になれば、高野山は、真言宗は、どうなってしまうのか」といった焦燥を感じていた。そんなとき、池口は人生の転機となる“大きな事件”に関わってしまう。

 '61年に発覚した『三無(さんゆう)事件』─。

 戦前から戦後にかけ、造船業界で鳴らした実業家が元陸軍幹部や軍出身の政治家らとともに、(1)税金のない(2)失業のない(3)戦争のない社会をつくるといった理想を掲げ、関わった池口によると「経済一辺倒の池田勇人内閣では共産革命は阻止できない」という理念のもと、クーデターによる臨時政府樹立に傾いていった。

 そうした激動の時代、池口は大学時代の先輩から布教のための講習会に講師として招かれる。講習会の終了後、池口は先輩に呼ばれると、ある計画を打ち明けられた。

「“現状を放置したら、日本で共産革命が起き、布教活動どころではなくなる。ソ連や中国のように宗教は弾圧され、抹殺される。それを阻止するために、われわれは予防革命を計画している。そのために、君に国会秘書として国会に潜入してほしい”と託されたのです。驚天動地の話でしたが、私自身、共産革命による宗教・仏教の危機感は感じていたから、覚悟を決めたんです

 “世直しをやる”と母親に別れを告げて上京した池口は、先輩に導かれて、三無主義運動の首謀者を紹介された。ある国会議員も紹介されて、秘書として国会に潜入することに成功。その後は国会の電話交換所の場所から変電所の場所、部屋の配置や階段の位置、扉の数まで頭に叩き込み、革命の突撃隊の来るべき国会突入の日に備えた。

 だが、計画は警察の知るところとなっていた……。

「革命への賛同を呼びかけるため、自衛隊との接触などから計画は早い段階で警察に内偵されていました。計画実行前に首謀者らは一斉に捜索を受け、次々と逮捕。

 私も捜索の過程で任意同行を求められ、破防法の容疑で逮捕されたのです

全国の信者から送られてくる祈願を記した添え護摩を含めて、今もほぼ毎日2500~3000枚の護摩を焚いている 撮影/佐藤靖彦
全国の信者から送られてくる祈願を記した添え護摩を含めて、今もほぼ毎日2500~3000枚の護摩を焚いている 撮影/佐藤靖彦
【写真】燃え盛る炎を前に、真言を唱える池口恵観

 事件は池口の写真入りで新聞に報じられた。取り調べ中に母親からは「私の子として恥ずかしい死に方だけはするな」との手紙が届き、留置場で池口は「なぜ自分はこんな奈落の底に落ちねばならなかったのか」と落涙した。

 逮捕、勾留はされたものの、クーデター計画の内実や決起当日の行動計画などもまったく知らなかったことなどから、20日間の勾留を経て起訴猶予に。実家から勘当同然となった池口は釈放後、ひっそりと鹿児島へ戻り、三畳一間の部屋を借りて、朝は経や真言を唱え、午後は托鉢(たくはつ)に行くといった毎日を続けた。

そんな私を勇気づけてくださったのが、お大師様でした。即身成仏─。すべての生命は仏様の子だから、生きながら仏様になることができる。私は、お大師様が教えられたその境地を会得すべく、生まれたときから宿命づけられていた行三昧の道に、改めて踏み出したのです。三無事件の挫折がそのことを教えてくれました」

 行への心が定まらなかったために背負った大きすぎる代償。それを自身の本来、生きるべき道の糧とした。