DaiGo氏の差別発言に関する見解と経緯、そして対応について

「反省する」とはどういうことか

 緊急声明の厳しさを批判する声やバッシングなど、多くの反響がある中でずっと考えていた。反省というものは一朝一夕にできるものではなく、自分のこれまでの人生を振り返り、向き合い、その価値観を否定し、ひっくり返すような作業を伴うもので、それは身を切る痛い作業の積み重ねだ。 

 困窮者支援の活動を始めて12年になる私にも、消えては浮かぶ差別意識がある。今でも向き合う内省作業はずっと続いているし、きっと一生続くものと思っている。これまでの自分が長い時間をかけて培い、積み上げてきた価値観を否定していくという作業は、誰にでもできることではない。

 とても身近な高齢者で、DaiGo氏と似た発言をする人がいる。その人と議論を続けて10年以上になるが、あるとき、悲しそうな顔をしてその高齢者は言った。

「自分はこれまでこんな自分が正しいと思って生きてきた。どうかこのままでいかせてくれ」

 それは、価値観を変えるということはそれほどまでに難しいことなのだと知った瞬間であった。

守るべきもの、守るべき対象を見誤るな

 DaiGo氏が全否定したホームレスや生活保護利用者に、その人らしく生きる権利が保障されているのと同様、DaiGo氏にも反省したり、学ぶ権利がもちろんある。やり直す権利も当然ある。それが社会であり、人権というものだ。

 だが、いま、私たち社会が守るべきは、今回DaiGo氏に差別され、否定され、不安と恐怖にさらされている人たちではないだろうか。

 DaiGo氏の権利を守ろうとする人々には部分的には共感する。しかし、日本の人権教育が一向に進まない最大の理由は、守るべき根幹の部分が常にブレてしまう点にあるようにも思えた。思いやりは大切だ。しかし、バランスを大事にするあまり、被害者が見えなくなってしまう。そんな中で、被害者たちは更に傷つき、孤立し、不安と恐怖に苛まれながら日々を過ごす。

 今回、私は「いなくていい」とされた人たちと共にあり、その恐怖を自分のこととして体感した。今でも怖い。だけど、その恐怖に負けて黙ってはいけないのだ。

 これまで想像を絶するバッシングにさらされてきたフェミの女性発信者、命の脅迫を受けながらヘイトスピーチに抗ってきた在日コリアンの方たち、障害者運動の方たちの顔が浮かぶ。どれだけの恐怖と闘いながら立ち続けてきたのかと。心からの敬意を表し、私もしっかりと立ち続けたい。

 そして、DaiGo氏の動画に傷ついた人たちと共にあるということを、声を大にして叫びたい。要らない人なんて誰もいない。みんなで一緒に生きられる社会にしていきましょう。そこにはDaiGoさん、あなたもいるのです。


小林美穂子(こばやしみほこ)1968年生まれ、『一般社団法人つくろい東京ファンド』のボランティア・スタッフ。路上での生活から支援を受けてアパート暮らしになった人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネイター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで働き、通訳職、上海での学生生活を経てから生活困窮者支援の活動を始めた。『コロナ禍の東京を駆ける』(岩波書店/共著)を出版。