摂食障害を経験したことで、一度は臨床心理士を目指したが、人間関係のトラブルで挫折。父の自殺をきっかけに医師を志し、7浪の末に医学部に合格したのは39歳のときだ。医学生と母親業を両立しながら、53歳で医師免許を取得。子育てや年齢を理由にあきらめないたくましい生きざま、そばで支え続けた夫や母親の思いを取材した。

53歳で医師免許を取得

 前島貴子さん(56)が7浪の末、医学部に合格したのは39歳のとき。3歳の長女と生後9か月の長男がいた。

 藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)在学中に次男を出産。勉強と3人の子育てに追われて留年を繰り返し、9年かけて卒業。3度目の挑戦で医師国家試験を突破し、医師免許を取得したときには、53歳になっていた。

 なんと、20年以上の年月を費やし、夢を叶えたわけだ。

「私はちっちゃいときから、もう本当に、落ちこぼれの落ちこぼれでした(笑)。勉強が苦手、試験が苦手で、ずーっと成績はほぼ最下位。スポーツもできなかったし、何か得意なものがあったわけでもない。先生にも『おまえはダメだ』と何度も烙印を押されて、自信も何もなかった。

 そんな落ちこぼれの私が30歳を過ぎて『絶対医者になる』と決めたんです。中学1年生の数学からやり直しましたよ。因数分解もわからなかったので(笑)」

 そう言って、中学時代の成績表まで見せてくれた貴子さん。普通なら隠しておきたいような過去も含めて、率直に話してくれたのは、女性たちにエールを送りたいからだと強調する。

冷静に幼少期の自分を分析する貴子さん。「毎日、忙しく働いている両親、絶えない夫婦ゲンカを見ていて、私自身が注目されないことが寂しかったんだと思います」と語る 撮影/渡邉智裕


「今の日本で、自分の力で十分な収入を得ている女性は一部だと思います。本当はやりたいことがあっても、旦那さんの給料で食べているから、子どもがいるからと、いろいろ我慢している人は多いと思う。

 そんな女性たちに、自分の夢をあきらめないでと伝えたいんです。何か方法はあるからって」

 子どもを3人産み育てるだけでも相当大変だ。しかも、貴子さんの場合、第1子は36歳、末っ子は42歳という超高齢出産。

 夫や母の手助けがあったとはいえ、何度壁にぶつかっても夢をあきらめなかったことに、ただただ驚くばかりだ。

 そのブレない強い思いは、一体、どうやって育まれたのだろうか─。

 貴子さんが“命”と初めて向き合ったのは4歳のころだ。

 お祭りの屋台ですくった金魚を不注意で土の上に落としてしまった。拾い上げることもできず、跳ね回る金魚が泥にまみれ動かなくなるのを見ていることしかできなかったのだという。

「あのときの絶望感は今でもありありと思い出します。それからは捨て犬や捨て猫を見つけると、『救わなきゃいけない!』と思い、全部家に連れて帰っていましたね」

 生まれ育ったのは島根県松江市だ。母親は繁華街で高級クラブを経営し、政治家が頻繁に来店するなど、とても繁盛していた。

 母は経営者としてもやり手で多角化経営を目指して、数年後には薬局も開店。バーテンダーだった父に切り盛りを任せた。

 通りに面した1階がクラブで2階が家族の住まい。2歳上の兄と貴子さんは、生後すぐから子守のおばあさんに育てられた。

「私は5、6歳のころから中学生くらいまで、ずっと髪の毛を抜いていました。学校の先生に円形脱毛症と勘違いされたこともあります。眉毛やまつげも抜いちゃうから美容院に行くとビックリされて(笑)。母は夜もいなかったので寂しかったんでしょうね」

 貴子さんが情緒不安定だった裏には、両親の不和もあった。父が浮気をしたりしてケンカが絶えず、幼い貴子さんが仲裁に入ることもたびたび。父に殴られて母の鼻の骨が折れたこともある。両親ともに別な人と交際を始めるなど、家庭は崩壊寸前だった。

 当時のことを母の藤原睦子さん(83)はこう振り返る。

「私は途中から、あの人(夫)にはついていけないわと思って、開き直っておりましたけど、子どもにはそんなことわかりませんしね。昼も夜も忙しくて、仕事でいっぱいいっぱいだったけん、貴ちゃんが髪を抜いているのも気づいてやれなくてね。本当にかわいそうな思いをさせました」

 貴子さんの居場所は、学校にもなかった。幼なじみが島根大学教育学部附属幼稚園に通っていたので、貴子さんも転入。そのまま附属小学校に進んだが、まったく勉強についていけなかったのだ。

「大学教授の娘とか医者、弁護士の子どもが集まっているから、みんな勉強ができる。うちは母が忙しくて勉強なんか見てくれないし、どんどん置いていかれて……。

 なかには『水商売の家の子とは付き合うなと親が言ってる』と私に聞こえるように話す子もいて、ショックでした。母に『仕事を替えてほしい』と何度もお願いしましたよ」

 決定的に落ちこぼれたのは附属中学3年生のときだ。附属高校はないので全員が受験する。貴子さんは小学生のころから先生たちに「このままでは、みんなと同じ高校には行けない」と何度も忠告されていたが、成績は上がらない。偏差値の低い高校に行くしかなかった。

 失意を抱えたまま進学。高校2年生のときに両親が離婚した。