父の自殺で医学の道へ

 東京に行ってみたかったので、高校卒業後は町田市にある短大の英文科に進んだ。レナウンに就職し、ブランド品の輸入業務を担当した。

 3年後に日本航空に転職。羽田空港でグランドホステスとして働いた。

「俳優の高倉健さんが好きなんですけど、チェックインを3回くらい担当しました(笑)。ずっと母のお店が遊び場だったこともあり、接客は慣れているし楽しかったですね」

 仕事は順調な一方で、なぜか食べることに極端な罪悪感を覚えるようになった。うどん1本すするのもためらい、栄養失調状態でガリガリに。しばらくすると今度はリバウンドで食べ続けてしまう。最後は食べて吐くことを繰り返した。

 ひとり暮らしを続けることに限界を感じて松江に帰ることにした。25歳のときだ。

 AO入試で島根大学教育学部に入学。母が経営する薬局を手伝いながら、心理学を学んだ。

「なぜ私が摂食障害になったのか。自分の心に何が足りなかったのか。一から見直そうと思ったんです。私自身が救われたかったんでしょうね。摂食障害について詳しく学んだことで、母子関係の異常が原因だとわかりました。母の無条件の愛を求めていたんだと思います」

 臨床心理士を目指し、市内の精神科医院で行う「セルフミーティング」に主催者側として関わった。参加者は摂食障害の患者や生きづらさを抱える人などで、ほとんどが女性だ。患者同士で行動を振り返り、気づきを得ていく場だが、司会を務めた貴子さんも自分の心の傷が癒されていくのを感じた。

受験回数を重ねるごとに少しずつ手ごたえを感じるようになった。1次試験は通ったのに、面接で落とされたことも 撮影/渡邉智裕
受験回数を重ねるごとに少しずつ手ごたえを感じるようになった。1次試験は通ったのに、面接で落とされたことも 撮影/渡邉智裕
【写真】住み込みで家事を手伝ってくれた、母の睦子さん

 あるとき、患者の中にリストカットしたり、家出する人が出るなど、トラブルが続いた。貴子さんは責任者にヘルプを出したが、思いもよらない反応が返ってくる。

「あなたのやり方がいけないのだから、みんなの前で土下座しろと言われて、『エー!?』と。それでトラブルがおさまりますかと聞いても、知らないと言う。その後、臨床心理士の勉強会に私だけ呼ばれなくなったんです。それがきっかけで、もう、この仕事はいいかなと」

 もともと臨床心理士というポジションに疑問があった。医療現場では医師が治療方針を決め、心理士は医師の指示のもとで患者の聞き取りをする。心理士がこうしたほうがいいと思っても、医師の方針には逆らえない。

「資格の壁をすごく強く感じました。自分の思うように治療をして助けるには、医師免許を取るしかないと思ったんですよね」

 それから半年後に起きた出来事が、貴子さんの決意を揺るぎないものにする。

 当時、貴子さんは2店舗目の薬局の経営を任されていた。その薬局の近くに父が経営する中華料理店があり、貴子さんはときどき、手伝っていた。

 ある日、近所の人に父の店が2日も閉まっていると聞き、慌てて駆けつける。

 合鍵でドアを開けると、テーブルの下が血の海だった。厨房で倒れていた父親は素人目にもダメだとわかる状態。警察は自殺だと判断した。

「見つけたときはすごくショックでした。でも、取り調べの間はめちゃくちゃ冷静でしたね。兄は動転して、立ったり座ったりウロウロしていたけど。父の知り合いに『寂しかったみたいだよ』と後から聞きました。離婚した後も、母のことを追い回したりしていたし……。

 ずっとお弁当を作ってくれていたのは父だし、私のことは溺愛していたと思います。私が臨床心理士に挫折して、父に『医者になりたい』と話したら、すごく応援してくれたんですよ。そんな父を救えなかった悔しさもあります」