物議を醸した“受賞”

 厄介なのは断トツの歌がなかったときだった。やはり大ヒット曲が乏しかった1980年代前半のある年、歌謡大賞で前代未聞の“事件”が起きた。

 当時をよく知る複数の関係者によると、A局の音楽番組プロデューサーが、放送終了後、実力派男性歌手の事務所スタッフから殴られた。大賞に輝いたのはアイドル歌手だったが、これに納得がいかなかったからだ。確かにアイドル歌手はお世辞にも歌がうまいとは言えなかった。

 当時の歌謡大賞の審査は各局の音楽プロデューサーたちを中心に行なわれ、そこに新聞・スポーツ新聞の音楽記者の票が加えられていた。音楽プロデューサーの中でも権限が大きかったのは、放送を担当する局の人間だった。

 暴力を振るわれた音楽プロデューサーは大賞を獲ったアイドル歌手がメインを務める番組を担当していた。このため、ベテラン歌手のスタッフに「情実で賞を獲らせた」と思われてしまったのだ。事実、この音楽プロデューサーはアイドル歌手に肩入れしていることを隠さなかった。

 歌謡大賞の一番の泣きどころは各局の音楽番組のプロデューサーたちが中心になって審査をしているところだったのだ。

「テレビ局は力のある芸能プロダクションから『なんとか賞を』と頼まれると断りにくい。その芸能プロからソッポを向かれると普段の番組が作れなくなってしまいますから。

 だから歌謡大賞は徐々に力のある芸能プロが有利になっていった。その分、音楽界全体としては歌謡大賞への情熱が徐々に冷めていきました」(同・元レコード会社幹部)

第31回日本レコード大賞('89年撮影)写真/週刊女性写真班
第31回日本レコード大賞('89年撮影)写真/週刊女性写真班
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 だが、審査が物議を醸したのは過去のレコ大も同じ。極めつけは1989年。その年の6月に逝去した美空ひばりさんの『川の流れのように』の受賞を、評論家や新聞・スポーツ新聞から選出された審査員は信じて疑わず、世間の多くの人もそう思っていた。

 ところが、選ばれたのはWinkの『淋しい熱帯魚』だった。

「美空さんは故人というだけで受賞できなかったわけでなく、最優秀新人賞のマルシア、最優秀歌唱賞の石川さゆり、この年から設けられた美空ひばり賞の松原のぶえが、当時はそろってコロムビアレコードの所属だったことが大きかった。

 『全部、コロムビアなのはマズイのでは』という空気が生まれていた。レコード会社がどこかなんて音楽ファンには関係ないのに。結局、TBS系列局員の票が大量にWinkに流れた」(前出・元スポーツ紙文化部記者)

 これを機にレコ大は審査方法の抜本的な改革を行なった。一方、歌謡大賞の改革は遅れに遅れた。各局の混成軍によって運営され、意志の疎通がスムーズではなかった弊害だ。