バンドを組んで自分を解放

「格さんの作業はとにかくキレイ。無駄な動きがなく、周りも自分も汚さないんです」

 境さんが感嘆する格さんのパン作りだが、もともとパンに興味があったわけではない。

 生まれは1971年、東京都東大和市。生家の団地があった多摩地区には、まだ里山の自然が残っていた。

「父は僕が高校生のときに大学の教授になるのですが、それまでは塾の講師をしながら食いつないでいて、家は貧乏でした。  その時代の小学生って4年生ぐらいまでは男女同じ教室で着替えるじゃないですか。そのとき、女の子たちに『それ、女子が着るものよ』と指摘されて、初めて自分が女もののシュミーズを着ていることに気づくわけです。それは姉のおさがり。ちなみにパンツは父のおさがりでした」

 時は高度経済成長の真っただ中。ザリガニが釣れる池は埋め立てられ、造成された土地に家が建ち並ぶ。両親は仕事で帰ってくるのが遅く、子どもたちだけで過ごす時間も多かった。

 そんな原体験から、格少年は「うちが貧乏なのは社会のせいだ」と、資本主義社会への怒りやお金を否定する気持ちを育んでゆく。中学2年になると、学校や社会に対する怒りを熱量高く放出するパンクロックに出会った。

「初めて(バンド)LAUGHIN'NOSEを聴いたとき、自分が抱いていた怒りはこれだ!と感じて、高校に入ってすぐバンドを組んだんです。それが自分を解放する初めての体験だったかもしれません」

 高校3年生のとき、文化祭でゲリラライブを敢行した。参加者は7名。綿密に計画を立て、演奏担当と消火器を噴射する係に分かれた。盛り上がるかと思いきや、ほかの生徒からわき起こったのは歓声ではなく「帰れ!」コール。停学を言い渡された格さんは、謹慎明けにヘアスタイルをモヒカンに変えた。

パンクバンドを組んでいた当時のモヒカンヘア(右)
パンクバンドを組んでいた当時のモヒカンヘア(右)
【写真】モヒカンヘアだった学生時代の格さん

「当時はなぜそうしたのか言語化できませんでしたが、怒りもありましたし、他者と自分を隔てるものを見つけてアイデンティティーを確立したかったんだと思います。そのまま身を持ち崩し、高校卒業後はパチプロになりました」

 しかし、生来の気の弱さと飽きっぽさから、すぐに自堕落な生活がイヤになった。数か月後に運送会社で働きはじめ、バンドも復活。高円寺や新宿のライブハウスに立つ一方で、クルマのチームに出入りするようになった。仲間たちと夜な夜なクルマを転がし、そのまま仕事に向かう日々。

「こういうのを刺激が刺激を食うというんですかね。そんな暮らしをしていると、社会に取り残された感があって、何をしてもつまらなくなって、死にたくなるんです。でも、気が弱いから死ねなかった。これってとても大事なこと」

 状況を打破したくて、仕事でハンガリーに行く父親についていった23歳のとき。1年間のハンガリー生活がもたらした影響は大きかった。

「向こうでオリンピックの強化選手やバレリーナなど、自分の夢に向かって打ち込んでいる同世代に出会い、みんながよくしてくれたんです。一方の自分には何もない。みじめでしたね。

 意識してそうしたわけではないのですが、化学物質をとらない生活をしていたのも大きかった。健康になって、感覚も鋭くなって、初めて身体は嘘をつかないと知りました。それに、貧乏でもみんな幸せそうで、1日1本のビールでずっと笑っているオジサンとかいるわけです。それって、食が豊かだからなんですよね」

 帰国後、空港で缶コーヒーを飲んだ格さんは、まるで絵の具を飲んでいるように感じて驚く。バンド時代はタバコと缶コーヒーがステータスだったのに、だ。そこで身体に興味を持ち、医者になりたいと思い立つ。しかし、高1から勉強はしたことがなく、英語のGirlも「ギルル」と発音していたほど。

 猛勉強の末、2年後に千葉大学の園芸学部に入学。健やかな身体を保つには食べ物が大切だと痛感したからだ。卒業後は農家になろうと考えたこともあるが、父やゼミの教授に就職をすすめられ、有機農産物を扱う企業に入社。20代最後の年、格さんはそこで運命の人と出会う。