45歳のときに離婚

 母親の強いすすめで歯科医の男性とお見合い結婚。福井県に嫁ぎ、嫁として、一男一女の母として、求められた役割を忠実にこなしてきた。京都の本店と西陣のパンケーキハウス、代官山店の3店舗をどれも人気店に育て上げた今の平野さんからは想像できない過去だ。

「小さな田舎町だったので、とにかく目立たぬように、目立たぬように過ごしていました。娘と息子が1歳半しか離れていなかったので、神経が子育てにいってしまったこともあります。子どもの教育をし、食事の用意をするのが私の務めだと考えていました。今考えると結構、教育ママだったと思います(笑)」

 夫は歯科医としては優秀だが、ワンマンなタイプだった。姑(しゅうとめ)も舅(しゅうと)に仕えるタイプの人で、それは当時の地方都市では当たり前の光景だった。

 結婚3年目のある日、平野さんの心にしこりを残す出来事が起きた。友人が初めて2、3歳の男の子を連れて自宅に遊びに来たときのこと。その年ごろの男児はやんちゃ盛りで、食事中もぽろぽろと食べ物を床に落としてしまう。

「それを見た元夫が友人に向かって、“あなたね。人の家に来て、子どもが落としたものの始末ぐらいしたらどうです?”と言うんです。彼女は謝っていましたが、泊まる予定だったところをその日のうちに帰っていきました。

 後から“ああいったことは、後でやるものだから”と言っても、“そんなことはない。すぐに拾うのがあたりまえ”と、こうなんです。人の気持ちには配慮しないタイプだったのかなと思います」

 子どもの進学先をめぐり、大きく意見が食い違ったこともある。日々のすれ違いが積み重なり、子どもたちが巣立った後、夫とふたりきりで残りの人生を過ごすことが少しずつ想像できなくなっていった。娘の裕季子さん(47)は当時をこう振り返る。

「もし私が母の立場だったら、もっと早くに離婚していたんじゃないかと思います。今はモラハラだ、パワハラだといった言葉もありますし、社会もそういうことに対してわりと厳しい時代じゃないですか。

 けれど、当時は“俺が稼いでやっているんだから、おまえは文句なんか言える立場じゃない”というスタンスの男性が多かったように思います。母も自分のためというより、家族のために生きているような印象でした」

 ひとりで生きる人生を選んだのは45歳のとき。2人の子どもが大学生になり、子育てにひと区切りがついたタイミングで離婚を切り出した。

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 家を出て転がり込んだのは、東京の大学に進学してひとり暮らしをしていた長女のマンション。それまで働いた経験は一度もなかったが、やっかいになり続けるわけにもいかない。そこで、平野さんは個人宅を一軒一軒回り、地図と住所を照合する地道なアルバイトを始めた。

「新聞の求人欄を見ても、今まで働いたことがない40代の女性ができる仕事はビラ配りとかレジ打ちのようなものしかなかったんです。これで残りの人生がすべて終わってしまうのはいささかつらいな、どうしよう……と思っているときに、志半ばで諦めたアメリカ留学が頭をよぎりました」

『松之助』のリボンに印字された「ロビン・ウッド」は、親友の名前。アメリカに憧れたきっかけをくれた大事な友人だ
『松之助』のリボンに印字された「ロビン・ウッド」は、親友の名前。アメリカに憧れたきっかけをくれた大事な友人だ

 最初にアメリカに憧れを抱いたのは、子ども時代のある出会いにあった。幼稚園で、アメリカから客員教授として来日していた父を持つ女の子と出会い、親友になったのだ。

「ロビン・ウッドという名前でね。当時の日本は食品を貯蔵するのに氷で冷やす“氷冷蔵庫”を使っていたんやけど、ロビンちゃんの家には見たこともない大きな冷蔵庫があるし、最新式の家電がそろっている。アメリカってすごい!どんな国でどんな生活をしてはるんやろ?一度見てみたいというのはそのころからありました」

 20歳になった平野さんが、留学を計画し始めた矢先、40代の若さで父が夭折(ようせつ)。アメリカ行きは夢に終わってしまう。

「うちの母というのが女学校に行くにもお手伝いさんがついてくるような田園調布のお嬢様。父と舅から“これをやってください”と言われたら、“はい”と従う人で、とにかく主体性がない人やった。時代もあったやろうし、母もそういうものやと思って受け入れていたのかもしれません。

 母はもともと留学に反対していたこともあって、“私を残して行くの?”と言うんです。一家の大黒柱を失って経済的な余裕もなくなるでしょうし、そんな母を振り切ってアメリカに行く気にはなれませんでした」

 幻に終わったアメリカ留学。息子を後取りに、娘を嫁がせるのが仕事と思っていた母にお見合いをすすめられたとき、こんな言葉をかけられた。

「“馬には乗ってみよ、人には添うてみよというでしょ。まずは結婚して、それから相手のことを知ればいいじゃない?”って。私に断る選択肢はありませんでした」

 専業主婦をしていた20余年、英語嫌いの夫の前で英語を使う機会はなかった。

 晴れて自由の身になったとき、アメリカへの思いが再燃したのだ。