7歳で初舞台、後継者に指名

 '94年8月3日、東京都生まれ。梨園や狂言の世界と同様に、幼少のころからその将来が決定づけられていた。

 祖母は初世・藤間紫(むらさき)。女優としても昭和芸能史に名を残した偉大な日本舞踊家だ。映画やストレートプレーにも多数出演し、主演舞台『西太后(せいたいごう)』は夫の猿之助が演出を手がけ、好評を得た。また、『ぼく東綺譚(とうきだん)』『父の詫び状』で第1回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞している。

 父は俳優として活動したのち、三代目猿之助が出演するスーパー歌舞伎のプロデュースなどを手掛けている藤間文彦(ふみひこ。母はかつて劇団『昴(すばる)』に所属し、舞台や映像で活躍した元女優の島村佳江。日本舞踊家の兄・貴彦(たかひこはかつてジャニーズJr.の一員として、大学進学まで活動していた。まぶしくなるほどの芸能一家だ。

 爽子は7歳で初舞台を踏む。会場は、高層ビルに生まれ変わる前の歌舞伎座。そのころから初世は爽子の舞踊センスを高く評価し、後継者に指名した。

 昨年『三代目藤間紫』を襲名。日本舞踊『紫派藤間流』の家元を継いだ。一方、本名の藤間爽子名義で、女優業を続けている。

 ドラマや舞台で、頭角を現す若手俳優のひとりだ。初世の夫である市川猿翁は、紫の死後、『二代目藤間紫』として家元となり、流派の存続に尽力した。三代目を爽子に譲ったのが、昨年2月のことだ。

 幼いころから日本舞踊家としての素養を買われた爽子だが、周囲から絶賛され、将来を嘱望される愛孫に対して、初世は評価しつつも、「私が爽子と同じ年のころだったら、もっと上手に踊れたわ」と、ライバル心を隠さなかったという。

 才能と才能は、しばしばぶつかり合い、その運動と摩擦が新たな着火剤となり、互いを刺激するようにできているのかもしれない。

 もっとも、幼かった爽子にとっては、自身の才覚を認識することなどなかっただろう。

「祖母はやっぱり天才だったと思います。踊り手として、あくまでプレーヤーでいたい人。どちらかというと私もそういうタイプで、ずっと踊っていたいんです。

 
今後の流派のことを考えると、お弟子さんたちに稽古をつける仕事はとても大切ですが、私も自分の踊りを追求するほうに目がいきがちなんです。天才型の祖母は、教えるのは下手だったと聞いています。天才だから、うまく踊れない理由がわからないんでしょう」

『紫派藤間流』は、'87年5月に創立。宗家藤間流から分派した。初世・藤間紫の世界観を継承する歌舞伎舞踊の一流派だ。翌'88年1月に大阪新歌舞伎座、'89年3月に歌舞伎座で紫派藤間流主催による公演が開催された。

 一方で女優・藤間紫として映画『極道の妻たち』や'95年の大河ドラマ『八代将軍吉宗』などの話題作にも出演し、お茶の間でも親しまれた。

 初世が天賦の才に恵まれた日本舞踊家だったことは、論を俟たない。夫の猿翁は、初世の著書『修羅のはざまで』(婦人画報社)にこんな文章を寄せている。

 《紫さんに、人間に対する鋭い洞察力、人の心を的確に読む力があるということは、紫さんの中にさまざまな人間の心や、人間というものに内在するあらゆる要素といったものがあり、それを己の心でしっかりとつかみとっているからに他ならない》

 猿翁からも激しく称賛される天才を、幼い爽子は嫉妬させた。それが持って生まれた才能によるものか、環境と積み重ねによるものか、それは本人にもよくわからないらしい。従来のファンは、爽子に初世の遺伝子を感じるのだろう。しかし、初世の舞踊を知らない世代も、爽子の舞に心躍らせるはずだ。それはつまり、爽子本人が持つ魅力のひとつに違いない。