しかし、ここで人気に火をつけたのが1982年7月にリリースしたセカンドシングル『少女A』。

「これはオリコンランキングの最高順位は5位。人気アイドルとなっていくのですが、その年、レコード大賞の新人賞を明菜ちゃんは受賞することができなかった」

'84年、メガロポリス歌謡祭でポップスグランプリを受賞し、ほほ笑む明菜
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 そう話すと、合田氏は1枚の新聞の切り抜きを取り出した。そこには、《『少女A』で人気上昇中だった中森は、ヒット性、歌唱力以外の仕事に対する姿勢、将来性などの評価が低く、落選に繋がった》と書かれている。デビュー間もない明菜だったが、それだけ“素行”が悪かったのか。

「これは明菜ちゃんが『少女A』を歌うのを嫌がったというエピソードが関係していると思われます。『少女A』は、当時のツッパリや暴走族を連想させるような楽曲でした。彼女としては清純な『スローモーション』でデビューしたのに、ツッパリの曲を“歌いたくない!”と反発したことが“新人なのにワガママだ!”となって、新聞に書かれたのでしょう」

 サードシングル『セカンド・ラブ』ではオリコン1位を獲得。トップアイドルへの階段を駆け上がった。が、次第に彼女への悪評も増えていく。

「デビューしたての新人なのに、現場で気に入らないことがあるとふてくされ、スタッフの言うことも聞かないなんて話はよく耳にした。スタイリストが用意した衣装が気に入らなくて、自分で買いに行ったりとか」(芸能プロ関係者)

“育ての親”が明かすの明菜の素顔

 人気が出て、慢心したのか。当時、明菜のマネージメントを担当し『研音』の部長でもあった角津(つのづ)徳五郎氏は、

「確かに“明菜はワガママだ”とか“めんどくさい子だ”と言う人はいっぱいいましたけど、私はそう思ってはいませんでした。本人もそうとう勉強していましたから、いいモノを作ろうと一生懸命だったのです。はっきり意見を言う子でしたからね。“まだ小娘のくせに生意気だ”と思った人はいたかもしれませんが」

 明菜は自分がやりたいと思ったことを、強く主張してきた。時には言い合いになることもあったという。

「だからといって関係性が悪くなるようなことはありませんでした。ただ、デビューしたてのころ、明菜がコンサートで自分が選んだ曲を歌いたいというので、許可したんです。しかし、当日になっても歌詞を覚えきれていなかったことがありました」(角津氏、以下同)

 角津氏が烈火のごとく怒鳴りつけると、明菜は会場から飛び出した。戻ってきたのは3時間後のことだった。

“どうするんだ?”と聞くと“歌う”と言うんです。歌詞も覚えてないくせに……と思ったら、ちゃんと歌えるんですよ。逃げ出したのかと思ったら、こっそり練習していたんです。海外の歌だったのですが、英語の発音もうまくって(笑)」