'85年、グアム島で行われたスポーツ番組で、交際していた近藤真彦と見つめ合う明菜
'85年、グアム島で行われたスポーツ番組で、交際していた近藤真彦と見つめ合う明菜
【写真】あどけなさが残る18歳の明菜、純真無垢な笑顔が眩しい

 ただ、『ヤンヤン』には近藤真彦が出演していたことも、明菜にとっては特別だった。

「うちの番組は『学校の放課後』ともいわれていて、年の近いタレントがいるから、話せて楽しかったんでしょうね。なにより明菜は“マッチに会うために歌手になった”とも言っていました。コントでマッチを抱きしめる役のとき、明菜も顔がにやけていました」(丸山氏)

 近藤と少しずつ距離を縮め、ふたりはほどなくしてひそかに交際をスタートさせた─。が、幸せな時間は長くは続かなかった。

近藤真彦との一件から周囲と距離

 1989年7月11日のこと。明菜は近藤の自宅マンションで手首を切って自殺を図った。

 当時を知る芸能ジャーナリストの石川敏男氏は、明菜の自殺理由についてこう話す。

1989年7月11日、中森明菜(当時23歳)が近藤真彦(当時24歳)の自宅で自殺未遂。同年の大晦日に“金屏風会見”を開いた
1989年7月11日、中森明菜(当時23歳)が近藤真彦(当時24歳)の自宅で自殺未遂。同年の大晦日に“金屏風会見”を開いた

「同年2月、マッチが松田聖子とニューヨークで密会し、キスしている写真が週刊誌に掲載されたのです。明菜さんはそれでマッチと揉めた末、自殺を図ったのです」

 同年12月31日。NHK紅白歌合戦の裏番組で、明菜は復帰を報告する緊急会見を開いた。そこで、自殺理由について問われると、

「なんて愚かな……、なんてバカなことをしたのか……」

 と、涙ながらに口にした。

 事情を知る、とある芸能プロの幹部は、

「当時、マッチはモテ男でしたから、何人もの女性タレントとウワサがあった。破局のきっかけとなった報道の前からマッチの女性問題でふたりの関係はこじれていた。明菜には積もり積もったものが、あったのです」

 ここから明菜は、少しずつ表舞台から姿を消していく。

金銭トラブルや事務所との関係悪化、周囲の裏切りを受け、次第に人と距離を置くようになっていきます。

 1995年には実母が亡くなって、明菜さんは中森家の戸籍から自分だけ籍を抜いてしまう。“家族がお金を使い込んでいる”と思っていたようですが、一方で、明菜さんの家族は“事務所がそう吹き込んだ”と主張。しかし、真相はわからないまま。2019年には妹の明穂さんが病気で亡くなりましたが、葬儀にも姿を見せていません。25年以上、家族との関係は断絶したままです」(スポーツ紙記者、以下同)