末期がんの患者が涙した歌

 毒舌オネエキャラでブームになる中、最初はとまどいもあった。

「やっぱり女言葉を使うことに抵抗があったんですよ。ちょっとひ弱な男の子っていうんで生きてきたから。どうしたら違和感なくやれるかいろいろ考えて。きれいになりたいけど女にはならないよ、でもこの世のものと思えない雰囲気がいいわって」

 そうして自身を演出していった。一方で、ブームは去ると冷静に捉える自分もいた。

「ブームは必ず引くものだけど、私には歌がある。こういうときこそ一生懸命やって、歌い続けられるようにしようと思ったの」

 復帰後、美川さんは紅白歌合戦にも16年ぶりに復帰し、通算26回出場を果たす。

 演歌歌手でプライベートでも親交のある藤あや子(60)は、20年ほど前に美川さんからかけられた言葉が忘れられないという。

「体調を崩してコンサートツアーをキャンセルしたり、テレビ番組も休みがちだったり、あまり仕事に集中できない時期があったんです。

 たまたま歌番組のラインナップでお隣になったら、“あんた、ちゃんとしなきゃダメよ!”と言われたんです。ハッとして、“ちゃんとしてますけど”って言ったら、“ダメよもっと仕事しなきゃ、断らずにちゃんとしないともったいないわよ”って。

 
今のような関係性じゃないときに、後輩の私なんかにもったいないって言ってくださったことが響いて」

「スランプに陥ったとき、海外を旅して、いろんなショーを見たりしたことが、自分の肥やしになった」と美川 撮影/伊藤和幸
「スランプに陥ったとき、海外を旅して、いろんなショーを見たりしたことが、自分の肥やしになった」と美川 撮影/伊藤和幸
【写真】本格復帰のきっかけをくれたコロッケと

 美川さんは新境地としてステージでシャンソンに取り組んできた。定期的に行ってきたシャンソンコンサートも今年で21回目を迎える。

「歌謡曲の歌手がシャンソンを歌うというのも、淡谷先生の教えがあったからなの。20歳のころ、あなたの声はシャンソンに向いているのよと言われて。越路吹雪さんも紹介していただいたの。衣装にお金をかけるのも、おふたりから学びました。豪華なものを身に着けるのは夢を売るプロの務めだと。見栄でなく、ひとつの生き方でもあるのよ」

 今、美川さんはフランスの楽曲『生きる』を大事に歌い続けている。死が近づいても怖くはない、最後まで悔いなく生きることだと魂を込める。この曲を持ち歌としていた元宝塚の歌手・深緑夏代にも許しを得て、フランスから著作権も取り、'13年、執念のCD化を果たした。

「この年齢になって歌える歌、長く歌っていける歌にやっと巡り合えたわって」

 コンサートの最後にこの曲を歌うと、涙する人も多いという。

「末期のがんの方がどうしても『生きる』を聴きたいと、病院から抜け出して車いすで来てくださったこともあったの。だから負けちゃダメよ、頑張ってねって。会場のみなさんからも大きな拍手でエールが送られて。改めて歌の持つ力を感じた瞬間でした」

 一方で、年を重ねて歌うほどに、緊張することも多くなったと隠さず話す。

「ステージに立つことの怖さを感じるの。越路さんのような方でも、幕が下りたときに倒れるくらい、緊張されてたのを見てましたから。毎回ステージは闘いですよ。でもそのお客さまとのやりとりが私の力になっているのね。

 罵声を浴びせられたこともあったけど、歌い続けてきてよかったって。きちんと鍛錬して、90歳まで元気で歌えたらなって。それは私のひとつの目標」