性被害が表に出てこないワケ

「自分が被害に遭っているという自覚がなく、大人になって思い返してから、あれは性暴力だったと気づくケースが多いのです」(長江教授、以下同)

 幼いうちはなんとなく違和感や不快感を感じながらも、自分が何をされているのか理解できていない。身近な人間と遊びやじゃれあいの延長線上で被害に遭ってしまう場合も多い。

 加害者に、脅しに似た口止めを強要されていることもまれではない。家族や親戚、教師、よく知っている大人などの顔見知りから性被害を受けている場合には「誰にも言っちゃだめだよ」「秘密にしておかないと、将来お嫁さんになれないよ」などと子どもの素直さを利用し、言いくるめられることもある。

 たとえ恐怖を感じても、手向かえば殴られたり怒鳴られたり、痛いことをされたりするかもしれないというさらなる恐怖から、言われたとおりに従うことしかできなくなる。

「自分が何か言えば、周りが大騒ぎになるかもしれない、親がすごく悲しい思いをしてしまう、と平穏な日常が崩れさってしまうことを恐れます。しかも物心がつき始めるとその感覚はより大きくなり、恥ずかしい、心配をかけたくないという気持ちから、経験したことにフタをしてしまうのです」

 この心の危険信号を放置すると、自分でも気づかない間に「トラウマ」となる。

「魂の殺人」性被害の残酷な影響

 暴力の根本は「相手を貶めて力ずくで支配する」。中でも相手の自尊心を踏みにじり、人権を否定し尽くしてしまうのが「性暴力」だ。被害を受けた人間は、恥や恐怖でどん底に突き落とされ、まるで生きたまま殺されるかのような苦痛を味わう。性暴力が「魂の殺人」と言われるゆえんだ。

 不可抗力の最大限の恐怖によってできた心の傷は、日常や人生にさまざまな影響を及ぼしていく。

 例えば「依存症」リスク。酒やタバコ、薬物、ギャンブル、摂食障害、窃盗、自傷行為など、ボロボロになった心は何かにしがみつこうとする。

「幼少期に繰り返し性被害に遭ったことで、トラウマによるPTSD(心的外傷後ストレス障害)になる人が非常に多いんです」

 アメリカで行われた調査によると、性暴力被害者の約5割がPTSDを発症するともいわれている。落ち着きがなくなる、気分の変動が激しくなる、怒りっぽくなる、さらには人が怖くなり信用することができなくなる─その結果、うまくコミュニケーションがとれず、周囲から孤立してしまう。また、発達障害や統合失調症、うつ病といった精神疾患と似たような症状が現れるケースも。

「幼い性被害者は、大人になっても社会生活を普通に送れなくなるほど追い込まれます。このトラウマは、専門家の治療を受けずに回復するのは困難で、時間がたてば消えて忘れる、というレベルのものではありません。ただ記憶を消しているだけの不安定な状態を続けます」

 実際に支援センターに相談に来る人の中には、性的トラウマによる影響で自分でも気づかないまま日常生活に支障を来し、「なぜ自分だけ普通のことができないのだろう」と長い間悩み続けていることも多い。

 現在では、トラウマに対し科学的根拠を示した確実な治療法が確立されている。被害者、そして周囲が変化や症状に気づき、専門家のもとで早めに治療することで、複雑化を防ぐことができる。