未だに受け入れられない“ママ”がいない世界

 昨年4月、“ママ”と呼び慕ってきた橋田壽賀子さんが急性リンパ腫のためこの世を去った。95歳だった。ピン子は熱海の橋田さん宅に駆けつけ、最期を看取っている。

「ママの足をずっとさすっていたら、ふと頭をあげて私のことをしっかり見たの。そしてそのままパタリと逝ってしまった。お手伝いさんたちが、やっぱりピン子さんなんだね、やっぱり特別なんだねって言ってくれましたね」

 橋田作品の看板女優として数々のドラマで主演を務め、ヒット作を次々世に送り出してきた。両者のタッグは40年以上にわたり、さらにこの先も新作の構想があったという。

「彼女はもっと生きると思ってたに違いありませんよ。だって90歳を過ぎてもまだ書きたい脚本があるって言っていたんだから。こんなに早く逝くとは思わなかった。

 嘘つきだったのは、エンディングノートを書いていなかったこと。書いてあるって言ってたくせに、どこ探してもないの(笑)。あの人は死ぬ気がなかったんだと思う

 異変を感じたのは、橋田が亡くなる2か月前のことだと、ピン子は振り返る。

「ママは字がとても綺麗な人だった。でも舞台に差し入れをしてくれたとき、手紙の文字が斜めになっていて。それを見たとき私の中でどこか予感めいたものがあった。涙が溢れて止まりませんでした」

 12年前熱海に家を持ったのも、橋田の熱烈な誘いがあったから。「今思うと、私が熱海に引っ越したのはママを見送るためだったんだな、って」とピン子は目を細める。そして公私共に深い付き合いを重ね、コロナ禍直前のクルーズが最後の旅行になった。

「ママは海が好きだったからクルーズ旅行はたくさんしたし、世界遺産はほとんど一緒に行きました。私が一緒に行ってないのは南極くらい。渡鬼の脚本を書き上げて、私に渡して自分だけさっさと行っちゃうんだからずるい(笑)。写真を見ると、本当にあちこち行ったんだなって思います」

 形見は橋田さんが愛用していたメガネ。「これ、ママが最期にかけていたものなの。度を変えて使っています」と常日ごろから身につけ、行動を共にする。本当の親子以上の関係だったと言える。その喪失感は大きく、1年以上経つ今もまだ受け入れ難いものがあると語る。

「今年の母の日、“そうだママに何を贈ろう”って思ったの。毎年いろいろ珍しいカーネーションを贈ってたから。でも贈れない。その辛さ、悲しさといったら……。

 いまだに地震がくると、“ママ大丈夫かな、電話しなきゃ!”って思っちゃう。地震の時いつも仏壇を押さえてたから(笑)」