ダンスのときはいつも笑顔

 KENZOは九州、福岡県筑豊の炭鉱町宮田町(現・宮若市)に生まれた。田んぼが広がり、周りはなだらかな山に囲まれている。

「本当になんにもない田舎の一軒家で、家には井戸もありました。炭鉱マンだったじいちゃんとひいばあちゃん、両親と4歳年上の姉ちゃんの6人家族。子どものころは父親が独立したばかりで、高学年になって両親の仕事が軌道に乗るまでは、とても裕福とは言えない家だった」

 おもちゃやゲームを買ってもらうことも、家族旅行に出かけることもない。それでも、近所の子どもたちと川や野原で日が暮れるまで泥だらけになって遊んだ。ゴミ捨て場で見つけたボロボロのボールでサッカーもした。

「小さいころは別になんとも思ってなかったけど、小学校に入って友達の家に行ったらフローリング、すてきな家具。うちの畳はすり切れてた。旅行やゲームの話をする子もいたけど、僕は姉ちゃんのお下がりの洋服を着てた。サンタクロースも来ませんでした」

 母の益子さんは、幼いころからお遊戯をするのは楽しそうだったと話す。

「幼稚園で『おおきなかぶ』を演じたとき、リズムに乗って楽しそうに踊っていたのをよく覚えています。小学校でも、運動会のダンスはいつも笑顔でしたね」

 身体を動かすことが好きで活発に外で遊ぶ一方、高学年になるとプラモデルやミニ四駆にも夢中になった。熱中するととことん追求する性格だ。自転車で家から30分以上かけて、いくつものプラモデル屋を巡ってパーツを集め、福岡市で行われた西日本大会で7位になったこともある。6年生では立候補して生徒会長も務めた。勉強も嫌いじゃなかった。

「小学校が1学年1クラスだけの小さな町で、生活保護を受けている家の子や給食費が払えない子もいたし、裕福な家の子もいた。貧富の差が激しい地域でした。僕は幼いながら劣等感があって、お金がなくても人よりキラキラできること、仲間と一緒に楽しめることってなんだろうってよく考えていましたね」

 地元の中学に進学すると、のどかな環境は一変した。

「学校はひどく荒れていて、校舎の中をバイクが走ってた。番長がいて、昭和で時代が止まったような学校でした。先生も厳しく塀の中で管理されているような閉塞感がありました」

 入学3日目に突然、番長グループに呼び出され、袋叩きにあった。腫れた顔を隠し、家族に心配をかけないように、「階段でこけた」と嘘をついてごまかした。

「野球部に入ったら、入部前は優しかった先輩たちも豹変しました。それは、地獄でしたね。荒れた学校をさらに凝縮したような部活だった。夏休みは練習前に20km走らされる。水も飲ませてもらえない。胃液を吐いてもまた走らされ、先輩の気分でお仕置きを受ける。今の時代では考えられない状況でした」

 練習を休むことも退部することも許されない。弱い立場の人間に威張り散らし不条理な後輩いびりをする先輩たちにずっと疑問を感じていた。

「人間って多少のことじゃ死なないんだなって思うくらい追い詰められました。見下されたら負けっていう精神がその当時の先輩たちに浸透してて、目が合っただけで喧嘩が始まる。まるで僕が出演した映画『クローズZERO』みたいな世界。

 精神力と身体能力は鍛えられたけど、先輩と同じやり方で自分を強く見せるのはカッコ悪いと思って、野球部の風習は僕らの代で終わりにしました」