ダンスとの出会い

 ダンスとの出会いは中学3年、夏の大会で部活を引退した後のことだった。

 夏休みのある日、深夜に受験勉強をしていると、たまたまつけたテレビでダンス番組が流れ始めた。司会はTRFのSAM氏。踊っていたのは福岡のダンスチームだった。

「そのダンスを見たとき、『カッコいい!こんなふうに踊ってみたい!』って、胸に稲妻が落ちたような衝撃を受けたんです」

 それは『RAVE2001』(テレビ東京系)という番組だった。慌ててビデオテープに録画した。以来、毎週その番組を録画して、何度もスロー再生や一時停止を繰り返し、ポーズを確かめて見よう見まねで踊り始めた。酷使したビデオテープは擦り切れ、音も聞こえなくなってしまうほどだった。

「1つステップを覚えただけですごくうれしい。最高!ってなる。ダンスを踊ってみたくてたまらない。そんな気持ちは初めてだった」

 野球部で無理強いされた練習と、自らやるダンスの練習の大きな違いにも気づいた。

「好きなことって本当に楽しい。全然うまく踊れなかったけど、ひとつひとつの動きが僕にとって輝く宝石に出会ったような感覚でした」

 最初は家族に隠れて自分の部屋で独学で動きを覚えた。少し動けるようになると、家の前の道端や商店街のガラスの前が格好の練習場になった。1人で何度も練習した。

 それを見ていた友人にすすめられ、文化祭のオープニングで初めて大勢の前でダンスを披露した。曲はモーニング娘。の『LOVEマシーン』。たった1人で舞台に上がった。

「披露できるチャンスがあるなら踊りたい。見てもらいたい!って、ただそれだけ。でも、反響はすごかった。今思えばとてもじゃないけど人前で見せられる踊りじゃないけど、ますますダンスが好きになりました。もっともっとうまくなりたいと思った」

 タウンページで探しても近所にダンス教室はない。まだインターネットも普及していない時代、北九州市内のダンスイベントに足を運び、憧れていたダンサーに声をかけ、「ダンスを教えてください!」と頼み込んだ。

 その紹介でレッスンを受け始めると知り合いも増え、ダンスの情報が集まり始める。福岡でいちばんダンスがうまい高校生がいるという噂を聞きつけ、その高校に進路を決めた。

 実家が歩いて数分の場所にあり、幼稚園から兄弟のように過ごしてきた幼なじみの1人、春田賢吾さん(37)は、高校も大学も同じ学校に進学した。今はカメラクリエーターとしてKENZOの映像作品の制作に携わっている。

「俺は全くダンスに興味はなかったのに、KENZOの家に行くたびに撮りためたダンスのビデオを何度も見せられました。

 中学まではそんなに目立つほうじゃなかったけど、ダンスを本格的に始めてすごい自信がついたんだと思います。高校では、文化祭のステージに上って、1500人の生徒の前で踊ってた。スゲーなって思う一方で正直、ジェラシーもありました(笑)。ダンスに夢中で誘っても遊んでくれなくなった。彼は全ての時間をダンスに使って、何かにとりつかれたように練習してました」

 家から高校まで片道1時間の自転車通学。学校が終わると、競輪選手の練習コースになるほどの峠越えの道をダッシュで帰り、練習場所にしていた隣町のスーパー『サンリブ』に再び向かう。夕方6時から11時まで、ショーウインドーのガラスを鏡代わりに毎日5時間。週末になると、終電で博多駅に出て、夜中1時から朝の6時まで福岡市内のダンサーたちと練習した。

 しかし、ダンスに熱中して夜遅く帰る息子を父は許さない。唯一の理解者は母だった。

「主人は理解してくれませんでしたね。とも(KENZO)は中3の秋ごろから夜も練習をしていましたが、夜遅く帰ると毎日のように厳しい言葉で叱責されました。主人が手をあげたこともあります。ともは黙って我慢していた」

 ダンサーという職業がまだ認知されていない時代。仕事人間だった父は、息子の将来を案じていた。

「なんでそんな不良がやるようなことをするんだ」

「ダンスで飯は食えない」

 母の知り合いも近所の人も、父親の意見が正しいと言う。受験勉強もする高校3年生の多忙な時期に毎夜、練習場所に車で送迎していた母の益子さんはそれでも送迎をやめなかった。

「私は、本人がやりたいと思うことは親がやめさせるべきではない、やめるかどうかは本人が限界を感じたときだと思っていました。それに、練習場所への送迎は私にとって、頑張っている息子を応援できる幸せな時間だったから」