一家を代表し21歳で謝罪会見

 順風満帆にいくかと思えた。'07年10月に行われた内藤大助と弟・大毅の世界戦。ここに、落とし穴は潜んでいた。この試合で不適切な言動を行った亀田サイドに、世間は容赦なく猛バッシングを浴びせた。興毅は、一家を代表して謝罪会見に臨んだ。まだ、21歳だった。

「親父は、『おまえらがするべきことは謝ることじゃなくて練習して強くなることや』と言い、会見には反対でした。でも、僕はあのときは謝るしかないと思った」

 今振り返ると、この判断に後悔があると告白する。

「目先の鎮火に躍起になってしまった。大毅がライセンスを停止されたのをはじめ、ボクシングに関してはリングの上で裁きを受けている。誰に謝るんやって話なんですよね」

 謝罪会見を行ったことで、ヒールという商品価値にもヒビが入った。

 この騒動後、亀田兄弟は協栄ジムを離れて、亀田ジムを設立する。大毅が念願の世界王者となったことで日本初の兄弟世界王者という偉業を達成し、プライベートでも中学時代の同級生と結婚、第1子誕生と明るい話題が続く。しかし、亀田ジムには暗雲が立ち込め始めていた──。 

 ボクシングジムは、現在、全国に270ほど存在するという。

 ジムは運営するだけではなく、自らが主となって興行を打ち、スポンサー営業もしなければいけない。もちろん、興行のチケットをさばくのもジム、あるいは選手となる。 

2006年8月2日、WBA世界ライトフライ級王座決定戦でファン・ランダエタ(ベネズエラ)に勝利。初の世界戦でベルトを奪取した
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【写真】幼少期のかわいらしい亀田3兄弟

 興毅が説明する。

「相撲は日本相撲協会があり、協会が年6場所を開催している。一方、ボクシングにはJBCがありますが、JBCが開催するわけじゃない。興行を開催するのは各ジム。相撲でたとえるなら、相撲部屋がおのおの興行をしているようなもの。ボクシングのジムは、練習だけしていればいいというわけじゃない」

 JBCは、ライセンスの発行など、ボクシング興行を客観的にチェックする監査機関のような存在。半面、ジムは興行を成功させるためひとりで何役もこなさなければいけない側面を持つ。そのため、立場が違うJBCとジムの間で軋轢(あつれき)が生じるケースもある。

 結論から言えば、亀田ジムはJBCと衝突してしまう。

 '14年には、JBCの職員から恫喝疑惑で訴えられる(その後、JBCの訴えを退け、亀田ジム側の勝訴が確定)など、因縁浅からぬ仲へと発展。亀田ジムは活動停止へと追い込まれ、興行を開催することができなくなるばかりか、三兄弟が保持するボクサーライセンスも実質的に失効となった。事実上の国内からの追放処分である。

 拠点を海外に移し、国外でしか試合ができないと、世間の関心も薄れていく。彼らは、ボクシングに興味があったのではなく、世間を騒がす「亀田家」に関心を抱いていたのだから。興毅は、そんな状況も変えたいと訴える。

「横綱が不在でも大相撲を見に行く人はたくさんいる。大相撲ファンがいるんです。でも、ボクシングは選手や話題ありき。ボクシングのファンを増やしたいんです」

2010年、日本人選手としては初となる世界王座3階級制覇を達成
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 '15年10月、興毅は引退を表明する。

 このときから、興毅は「ボクシングへの恩返しを考えていた」と語る。AbemaTVの『亀田興毅に勝ったら1000万円』('17年)、『1000万円シリーズスペシャルマッチ 那須川天心vs亀田興毅』('19年)といった企画も、ボクシングへの興味・関心を増やすために望んで出演を決めたことだった。

 だが、ボクシング界からの反発は強く、協会は「非ボクシングイベント等の不当性を今後も世論に訴え続ける」といった旨の声明文を発表する。

「要するに亀田と関わるなという内容です。ボクシングを盛り上げたいという思いが、一気に冷めた」

 引退してもなお、業界の亀田アレルギーは根深かった。「約2年、ボクシングと距離を置きました」と乾いた声で笑う。