初代ジャニーズは、それまで歌って踊れるタレントがいなかった歌謡界にあって、画期的な存在だった。1964年に「若い涙」でデビューすると人気も高まり、1965年には『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。

 その翌年ジャニー喜多川は思い切った決断を下す。1966年8月、初代ジャニーズは日本での仕事を休み、本格的にダンスや歌のレッスンを積むため、アメリカへの長期滞在に踏み切った。『紅白』にも出場し、さあこれから日本でもっと活躍しようというのが芸能界の常識だろう。しかし、初代ジャニーズはそうせず、日本を離れアメリカでの武者修行に向かった。

 ところが、1967年1月、約4か月ぶりに日本に戻ったジャニーズの前に、思いもかけない状況が待ち受けていた。留守にしているあいだに、日本ではビートルズなどの影響を受けたグループサウンズ(GS)のブームが巻き起こっていた。

 それは、誰もがギターを持って歌える時代の幕開けであり一種の革命だったが、歌って踊るアメリカ流のショービジネスの世界を基本にしたジャニーズとは交わらないものだった。それだけが理由ではないだろうが、結局初代ジャニーズは1967年いっぱいをもって解散することになる。

ジャニーズミュージカルのなかの「アメリカと日本」

 とはいえ、ジャニー喜多川は、単純にアメリカの真似をしようとしたわけではなかった。アメリカのショービジネスがお手本であることに変わりはないが、作品としてはオリジナルミュージカルにこだわった。

 それは、日本とアメリカの両方に愛着を抱きつつ、自らのアイデンティティーを証明しようとするジャニー喜多川の思いを反映したものだっただろう。彼は、アメリカへの強い憧れの念を抱きつつも、日本らしいエンターテインメントとはなにかを一貫して追い求めた。ジャニーズの歴史は、その模索の歴史でもある。

 1980年代には、少年隊がその歴史を牽引した。先述の『PLAYZONE』において、少年隊は、初演の1986年から2008年まで主演を務め続けた。

 そこにもやはり、アメリカは登場する。たとえば、1986年版のストーリーは、ミュージカルのスターを夢見る3人の若者がニューヨークにやってきて、騒動に巻き込まれるというもの。さらに劇中披露されるいくつかの楽曲の振付を、マイケル・ジャクソンの「スリラー」の振付で知られるマイケル・ピータースが担当していた。

 実際少年隊も、1985年のレコードデビューより前に、武者修行のためアメリカに渡っていた時期があった。定期的に渡米して向こうのショーなどにふれたり、マイケル・ピータースのダンスレッスンを受けたりしていた。ある意味、『PLAYZONE』は、そうした彼らの海外武者修行の経験をそのまま舞台化するところから始まったとも言える。