もちろんほかのジャニーズタレントにとっても、ダンスはすべての基本ではある。だが、ここまで徹底したスキル志向は、Travis Japanをほかのグループとは一線を画す存在にしてきた。

 そのスキル志向と表裏一体なのが、海外志向である。先述した結成の経緯からも想像がつくように、Travis Japanには、つねに海外志向、とりわけショービジネスの本場であるアメリカ志向があった。

 実際、2019年には、アメリカのアーティスト、オースティン・マホーンの来日公演で本格的な共演を果たしている。こうした形式での海外アーティストとのステージ共演は、ジャニーズ史上初のことだった。

 その意味では、彼らがアメリカ武者修行を決断したのも不思議ではない。2022年3月、ダンスレッスン、ボーカルトレーニング、語学習得を目的として、3月下旬から無期限の予定でアメリカ・ロサンゼルスに渡ることを発表した。

 そして早速、アメリカで開催のダンスコンテストに参加して入賞。それがきっかけになって7月放送の『アメリカズ・ゴット・タレント』に出演し、彼らの初オリジナル曲「夢のHollywood」の英語詞バージョンを披露して高評価を獲得、会場のオーディエンスからも拍手喝さいを浴びた。

 残念ながら最終的にファイナルステージには進めなかったものの、セミファイナルステージ進出という結果を残した。そして彼らへの期待感が高まったところで、今回の世界メジャーデビューの発表となったわけである。

初代ジャニーズもしていた海外武者修行

 ジャニーズアイドルは日本ならではのアイドルと考えるなら、Travis Japanは異端の存在に見える。だが決してそうではない。ジャニーズの歴史の底流には、アメリカへの志向がずっとあった。

 そこには、ジャニーズ事務所創設者・ジャニー喜多川の思いがある。1931年アメリカ・ロサンゼルスで生まれ、戦争を挟んで日本とアメリカを行き来する生活だった彼は、アメリカでショービジネスを学び、その経験を生かしてエンターテインメントの世界へと身を投じることになる。

 戦後、ジャニー喜多川は、現在の代々木公園の場所にあった米軍関連施設・ワシントンハイツのグラウンドを借りて、少年野球チームをつくっていた。そしてある日、そのメンバー4人とともに映画を観に行った。

 その映画とは、『ウエスト・サイド物語』(1961年公開)だった。ニューヨークの不良少年たちを主人公にした青春恋愛ストーリーで、元々はブロードウェイでヒットしたミュージカルである。

 感激したジャニー喜多川と4人はミュージカルへの思いを募らせ、1962年芸能活動をスタートさせる。ジャニーズ事務所の誕生である。4人のグループ名もそのまま「ジャニーズ」(以下、「初代ジャニーズ」と表記)となった。