多忙を極めていた俳優・川上麻衣子

 記憶がなくなるほど、当時の川上は多忙を極めていた。休めない、というほかに家族みんなが懸念していたのは、川上は小学生のころから私立の玉川学園に通っており、出席日数が足りなくなっていたことだった。

 実は、『金八先生』出演に際し、学校側からは「このドラマが終わったら芸能生活はやめてください」という条件が提示されていた。上り調子だった川上は、同年から芸能生活を休止する。

「芸能活動を一度やめて、その間もヒロくんやつかさちゃん(伊藤つかさ)といった仲間たちがテレビで活躍しているのを見て、『私もあそこにいたんだ』という気持ちが芽生えたんです。あと、休んでいてもオファー自体はいただくんですね。でも、全部断らなきゃいけなくて、後でほかの方がやっているのを見て『私だったらこうしてたのに』と思うと、またやりたいなという気持ちが強くなっていきました」

 結局、玉川学園からNHK学園に編入し、女優復帰を果たした。なんと、両親には頼らず、すべて自分で手続きを行ったという。

そのへんは自分で勝手に調べて、自分で決断して、私には事後報告でした。本人がそう決めちゃった(笑)」(玲子さん)

重度の知的障害者の役で復帰

 復帰した川上が最初に出た映画は、市川崑監督の『幸福』('81年)だった。

 彼女が演じたのは、重度の知的障害者。家の柱にしがみつき、ずっとよだれを垂れ流し、言葉もしゃべれず呻き続ける少女の役であった。母親役を演じたのは、故・市原悦子さんだ。

「私には(役を演じる)自信がないし、社交的なほうでもなかったから、楽屋ではじっと黙っていたんです。そうしたら、市原さんから『演じづらくてつらいだろうけど、女優としては最高の役だと思う。こんな若いうちから重要な役を任されるなんて本当に運がいいんだから、頑張んなさい』と言っていただいて。本当にありがたかったです」

 当時、川上に付いていたマネージャーは大竹しのぶを発掘した人物だった。つまり、川上の眼前には大竹のような演技派女優の道へ進むレールが敷かれていたのだ。そして市原悦子のような本格派は、まさに川上にとって目標とするべき存在だった。

「あんまり人がやらないような役をやったほうがいいっていうのは、目指すところではありましたね」

親友だった故・可愛かずみさんと
親友だった故・可愛かずみさんと

 川上が18歳になったころ、雑誌『写楽』で篠山紀信撮影による彼女のヌードグラビアが発表された。

「最初の劇団をやめて、樋口可南子さんや手塚理美さんがいらっしゃる事務所に入ったんですね。おふたりがちょうど、篠山さん撮影のヌード写真集で話題になっていたころでした。ただ、当時の私は16歳だったから、社長に『ヌードは絶対やりませんよ』と事前に言っていて(笑)。だけど、やっぱり篠山さんに会うことになっちゃうんですよね。で、篠山さんは『撮りたい』と。で、私も篠山さんに撮っていただけるのはうれしいんですよ。でも、『裸はちょっと……』というのはあったんですけど。

 そこからはもう、流れですよね。当時は出版社にお金があったから、撮影でドイツまで行って。写真を撮るときは、やっぱり現場で脱ぐ方向にいくんですよね。ただ、その撮影が部屋の中でとか、下着から徐々に……とかだったらやらなかったですけど、裸で野原をワーッと駆け回っちゃえみたいな企画だったので、それ自体にはあまり抵抗がなかったんです

 このときのヌード撮影は、「撮ってはみたけど、世間には出さないでおきましょう」という約束のもとで行われた……はずだった。