両親は心の問題に寄り添ってくれず

「もともと両親は不仲でした。子どものころは両親のケンカが激しかったですね。きょうだいがいないから、僕はそれをひとりで見つめて心を痛めていた。このふたりはどうして結婚したんだろう、どうして離婚しないんだろうと思っていました。父はおおらかな田舎のおじさんという感じの人なんですが、母はけっこうヒステリックで、一度怒ると手がつけられなくなる。母の機嫌や気分が予想できないから、急に怒られて外に放り出されても何がいけないのかわからなかった」

 父とは小学生のころは会話をした記憶がある。だが中学生になって、彼が少しずつ心のバランスを崩すと、父はかける言葉がないと思ったようだ。自分の理解の範疇を超えているから、どう対処したらいいかわからなかったのかもしれない。おおらかでいい人だからこそ、自分の子の繊細さを受け止めきれなかったのだろう。母は、自身の両親が離婚し、人生の艱難辛苦を味わったため、「人は頑張ればどうにかなる」と信じているタイプ。ただ、父と同様、小川さんの心の問題に寄り添ってくれることはなかった。

「病院代は出す。親はそれで十分でしょと思っていたんでしょうね。時々、ひきこもり当事者の会などで、親がひきこもりについて勉強したり、子どもに協力したりという話を聞きましたが、羨ましかった。

 うちの親は僕には関心がなかったように見えました。それでも今も実家にいるわけですから、いさせてくれることに感謝はしています。親は僕を傷つけないように気を使っているのもわかりますし。ただ、きょうだいや相談できる親戚がいたら、何かが変わっていたのかなと思うこともありますね」

 20歳からの6年ほど、彼は月に1回、地元の保健所が開催するひきこもりの当事者会に行くだけで、あとはほとんど家にこもっていた。哲学書や古典文学を読みあさり、時折ひきこもり当事者会の新聞や親の会の会報に文章を掲載されたりもしていた。彼自身、さまざまな「当事者会」ともつながってみたものの、なかなかなじむことができなかった。そこでは強い者が、大きな声で発言する者が正義のように見えてつらくなった。

 彼は自ら調べて、行政への相談を重ねてきた。相談員に助けられたこともあれば、なかなか理解を得られないこともある。少しずつストレスがたまっていった。

「家庭内暴力というんでしょうか、物を壊したりしたことがあります。親に暴力は向かず、バリケードを張ってこもったり、自分に包丁をつきつけたりマンションの7階から飛び降りようとしたり。

 誰かに、僕の繊細さと弱さをわかってほしかったのかもしれない。自分のキャパを超えるストレスに見舞われていたんだと思います」

 そして5年前、彼が28歳のころ、ついに自分が“できないこと”の壁に押しつぶされるような気がして、さらなる希死念慮が止まらなくなった。

「こうなったら自分で死ぬしかない。いろいろシミュレーションをしていました。ロープで輪っかを作る、椅子を用意する、遺書を書く、おむつもしたほうがいいな、とか。いくつかの段階を経ていくうちに、本当にヤバいと思って警察に電話したんです。警察も、これはまずいと判断したんでしょう。母に連れてくるように要請しました。それでそのまま精神科病院に保護入院となったんです」

 父が会社を休んで、入院用の荷物を運んでくれた。彼の繊細な心を理解はできなくても、両親は親としてできるだけのことはしているのだ。それは彼自身も認めている。