ゴールに着くことが冒険の目的ではない

 より難しいルートを探し、ひとりで歩く。それを繰り返して10年ほどたったころ、「いつか北極点を目指せたら」というぼんやりした思いが、明確な目標に変わっていた。さしあたっての壁は資金だった。

「村から村をつなぐ冒険では、定期便を利用します。しかし、北極圏への挑戦では、滑走路もないような場所まで飛行機をチャーターする必要がある。そうすると、旅費が1ケタ違ってくるんです」

 企画書と名刺を持ち、企業への飛び込み営業を1年ほど続けた。それでスポンサー契約に結びついたことは一度もなかったが、荻田さんのことを応援したり、伴走してくれる人が現れ始めた。

 クラウドファンディングがまだなかった時代に、冒険の趣旨に賛同してくれる人を「サポート隊員」としてカンパを募った。結果、500人近い賛同者が集まり、なかには300万円を振り込んでくれた女性もいた。

 ここで、極地探検前の準備について触れたい。

 まずは、寒冷地に身体を適応させてゆく。日本からやってきていきなりマイナス40度のなかを歩けば、確実に身体が変調をきたすからだ。

 装備品の選定や食料の袋詰めも大切な作業だ。単独徒歩行では自分でソリを引くため、少しでも装備を軽くしたい。歯ブラシの柄をカットするなど数十g単位で総量をそぎ落としていく。

 食事はgあたりのカロリーが高いバターやチョコレート、フリーズドライの炭水化物などを用意する。岩のように凍った油脂類は、正直うまいものではない。しかし、ある日それらが猛烈に美味しく感じる瞬間が訪れるという。

ピーナツ1粒でも大切な環境ですから、旅の途中は『帰国したら、絶対にバケツいっぱいのピーナツを食べてやる!』と思うんです。絶対やらないですけど(笑)

 日本人初の無補給単独徒歩での北極点到達を目指すべく、2012年3月2日、荻田さんは、スタート地点にあたるディスカバリー岬の海氷上にいた。

 普段、大地を踏みしめている私たちには想像しにくいことだが、北極点は北極海に浮かぶ氷上に位置している。つまり、目的地まで常に流動的な氷の上を歩くことになる。

 乱氷帯(海氷がぶつかり合い、せり上がったエリア)が行く手を阻み、隆起した壁が10mに及ぶこともある。オープンウォーター(海氷の割れ目が発達した開水面)が発生し、海氷破壊に巻き込まれないか不安を抱きながら眠る日もある。極めて難しいこの挑戦は、地球規模の気候変動により、年々難易度が上がっている。

 そこで、遠征事務局と定時交信を行い、「北に何km行った地点に大きな氷の割れ目がある」などといった最新の情報を得る必要がある。この当時、北極遠征の事務局を務めたのが大木ハカセさん(49)だ。

「そのときの僕の仕事は、荻田くんを死なせずに帰らせること。衛星画像や気象図を取り寄せてはその分析をして、荻田くんに伝えるんです。日々、交信していると、『語尾が昨日とは違う』『話す間が早くなっているな』といったことから、彼の不安が伝わってくるんです。あのときは、いつ緊急の連絡が入るかわからないので、連絡がつかない場所に1秒でもいるわけにはいかない。地下鉄に乗らず、酒は一滴も飲まず、荻田くんと一緒に作った東京・両国の小さな事務所に寝袋を持ち込んで、寝泊まりしていました」

海氷の状態が悪化し撤退

 しかし、海氷の状態は、日増しに悪化してゆく。揺れ動く海氷上の冒険は、引き際を間違えると死につながる。荻田さんは、撤退を選んだ。

 2014年、荻田さんは人間世界から隔絶された極地に戻った。北極点無補給単独徒歩に再挑戦するためだ。

 このときも天候は荒れた。海氷状況も悪化し、食料と体力は消耗していく。イチかバチかに賭ければ、北極点にたどり着けるかもしれない。再挑戦のために周到な準備を重ね、身体をつくり、多くの資金を集め、多くの人の協力を得てもきた。

「ただ、そのままゴールしてうれしいのだろうか?」 

 行くべきか、引くべきか悩んだ末、スタートから42日目に撤退を決めた。

私の場合は、『ゴールに着くこと』ではなく、『着こうとしていること』が目的なんです。無理して這いつくばって到達したところで、それは偶然でしかない。余裕を持ってゴールしてはじめて、自分の実力と守備範囲が広がったことになると思いますし、そういう冒険をしていたいんです