大学の受験費用を盗まれ、自活の道へ

「僕は自分が特待生だと思っていましたから。3秒くらい歌ったら『いいよ』って言われたので、やっぱり合格したんだと思いました。それでいつ東京に行けばいいのか聞き、落ちたことにそのとき初めて気づいて。もう恥ずかしくて仕方ありませんでしたよ」

 週明けの学校では「歌手はいつでもできるし、やっぱりもう少しみんなといたい」と友人に話し、もうひとつの好きなことであった野球選手を志すことにした。練習相手もいない環境で、団地の壁を相手に練習を続ける。両親の反対を押し切り、親元を離れ隣県の強豪高校へと進学するも、部員の不祥事で野球部は対外試合を無期限休止に。歌手に続いて野球への道も断たれることになる。2度の挫折を経験した石田少年は、大学進学を目指すこととなった。

 ひとり暮らしで予備校に通いつつ受験に備える日々。大学受験を目前にしたころ、人生の大きなターニングポイントとなる事件が起こる。

「1校あたり受験料が2万円くらいでしたから、20万円ほどを親から現金で送ってもらっていました。当時住んでいた4畳半のアパートにお金を置いて外出して、戻ると現金がなくなっていたんです。きっとあの友達だろうな、お金なくてかわいそうなやつだなと思いました。僕自身ももともと大学に行きたかったわけではないので、仕方ないなと」

 しかし、親に言うことができなかった。「しばらく連絡が取れないようにしよう」と考え、まず引っ越しを決めた。足りない資金は学生ローンで補ったという。

「お風呂がある家に引っ越したかったので、本当は30万円が必要だったのに、怖くて15万円しか借りられませんでした。だからもう1軒、別の学生ローンに行き、また15万円を借りて引っ越し資金にしたんです。本当は自分のお金じゃないのに、そのとき僕は『自分でお金を稼いだぞ』と思っちゃったんですね」

 それまでにも新聞配達などでお金を稼ごうとしたがうまくいかず、この借金が初めて自分自身の手でお金を得た体験だったと石田社長は振り返る。両親は倹約を是としており、魚釣りや家庭菜園で半自給自足的な生活だったことに我慢ができなかったという。

「家族で県の公舎に住んでいたのですが、僕の家は1階で庭があったんです。そこで白菜とかにんじんみたいな野菜を作って食べる生活がたまらなく恥ずかしかった。そばを通るとうちの前が畑になっているのが見えちゃいますから。もちろん農家は悪くないのですが、父親は県庁で働いているのに友達から『石田くんちは農家なのね』と言われるのが本当に嫌でした」

 バナナは風邪をひいたときしか食べさせてもらえず、カステラは1センチごとに目盛りを入れて毎日少しずつ食べ、カルピスも1杯飲むごとに瓶に線をつけておく……そのような倹約生活は、石田少年にとって窮屈なものだった。

父親の“背中”が社員教育に生かされる

「それに、うちはみんな身体が大きいのに、車も頭をぶつけるような小さいのに我慢して乗っていてね。そんな父親をいつも“せこい”と思っていました」

 しかしあるとき父親から、お金は子どもたちが望めば大学に行けるように計算して貯蓄していることを聞かされる。そのころはすぐに納得ができなかったというが、今その精神は社員教育に生かされている。

「父が言っていたように『給料の額は決まっているから、その中でやりくりするのはサラリーマンの役目で、倒産しないように頑張れば生活は保証されるから頑張ろう』といつも話しています。それが嫌だったら、会社を辞めて僕のように自分で起業するべきだ、とも」

 倹約家の父を見て育ったからこそ、石田社長の独立心が育ったといっても過言ではないだろう。初めて“お金を稼いだ”のが借金であったとしても……。