原子爆弾の投下という悲惨な歴史

永積寅彦氏からお妃教育を受ける紀子さま(写真/宮内庁提供)
永積寅彦氏からお妃教育を受ける紀子さま(写真/宮内庁提供)
【写真】学生時代の佳子さま、割れた腹筋が見える衣装でダンスを踊ることも

 また、広島市公式ウェブサイトは、「原爆の子の像」の概要について次のように紹介している。

《「原爆の子の像」は、年間を通じて、たくさんの千羽鶴が捧げられていることから、別称「千羽鶴の塔」とも呼ばれています。

 像の高さは9メートルで、その頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面左右の二体は少年と少女と明るい希望を象徴しています。像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています(略)》

《六日月曜日、(略)午後七時過ぎ、海軍省より電話を以って侍従武官府に対し、呉鎮守府の情報として本日午前八時頃、広島市上空に来襲の米軍爆撃機より特殊弾攻撃を受け、市街の大半が倒潰、(略)被害甚大である旨の通報あり。(略)

 なお、翌七日午前一時三十分頃、同盟通信社は、米国大統領及び英国首相の声明として、八月六日広島に原子爆弾を投下した旨の米英両国の放送を傍受する》

 これは、『昭和天皇実録』の、広島に原子爆弾が投下した日の生々しい記述である。昭和天皇は、佳子さまの曽祖父にあたる。

 秋篠宮さまにとっては祖父にあたり、殿下が幼少時には昭和天皇と時々、対面して懇談していた。昭和天皇は、礼宮文仁親王殿下にちなんで、秋篠宮さまを「アヤちゃん」と呼び、とても可愛がっていた。

 1945年8月8日の『昭和天皇実録』は、次のように書いている。

《この種の兵器の使用により戦争継続はいよいよ不可能にして、有利な条件を獲得のため戦争終結の時機を逸するは不可につき、なるべく速やかに戦争を終結せしめるよう希望され(略)》

 戦争を終わらせるため、いよいよ昭和天皇が腹を固めていく様子がよくわかる。そして、8月15日、終戦を迎える。9月1日には次のような記述がある。

《(略)今般、広島・長崎の両市において戦禍による被害甚大につき、侍従永積寅彦を広島市へ、同久松定孝を長崎市へそれぞれ御差遣になる。(略)永積は三日に広島県庁において聖旨を伝達し、同県知事高野源進より、情報を聴取の後、大本営において中国軍管区司令官谷寿夫より概況を聴取する(略)》

永積寅彦氏からお妃教育を受ける雅子さま(写真/宮内庁提供)
永積寅彦氏からお妃教育を受ける雅子さま(写真/宮内庁提供)

 この7月中旬、「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を訪れた私は、会場で見た当時のニュース映像に驚いた。そこには、紀子さまにとってなじみのある永積寅彦氏が映っていたからである。実録にあるように永積侍従は、広島に原爆が投下された後、昭和天皇によって被爆地に派遣されていた。

 戦後、侍従次長や掌典長などを務めた永積氏は晩年、結婚前の紀子さまと皇后雅子さまのお妃教育を担当していたこともあり、二人にゆかりの深い人物でもあった。つくづく私は、歴史の持つ不思議さを感じた。

 永積氏を接点として原爆と、紀子さまや皇后雅子さまがつながる、結びついていると思えたからである。歴史の奥深さを感じざるを得ないのである。

 80年の歳月は長くはなく、広島と長崎への原子爆弾の投下という悲惨な歴史は、決して遠い過去のものではない。今からでも遅くはない。再び、大きな間違いを起こさないために、佳子さまや私たちにやれることは、まだまだたくさんあると思う。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に2025年4月刊行の『悠仁さま』(講談社)や『秋篠宮』(小学館)など