美術部の顧問は、のちに『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)で活躍することとなる、渡邉包夫先生だった。日本画が専門で、生徒には何も教えない、変わった先生だったという。
70を過ぎてYouTubeに挑戦できた理由
「部活でも、終わりのほうに顔を出して、部員の作品をさっと見てから『みんな柴崎みたいに描け~』と言って終わり。ユニークな先生でしたよ」
高校卒業後は、姉と同じように県庁に勤めるつもりで公務員試験に合格。だが卒業が近づくにつれ、言いようのない気持ちが押し寄せてきた。
「俺はこの田舎でずっと働いて、土日は農業をするのかな、って思ったら、無性に東京で勉強したくなってね。一人息子だし、農家を手伝うのが当たり前の時代だったから親にもなかなか言い出せなかったんだけど」
そのまま卒業を迎え、5月になっても、せっかく採用された県庁にも行かず家にいる息子を、父親は一切とがめなかった。
「思い切って、東京に行きたいと打ち明けたんです。そうしたらすぐに、だったら行ったほうがいい、と認めてくれて。小さいころから父は、僕にたっぷり愛情を注いでくれました。勉強ができたのに貧しくて都会に出られなかった若いころの思いを、僕に託してくれたんだと思います」
アルバイトをしながら、杉並区にある阿佐ヶ谷美術専門学校で学ぶことに。翌年春に、和光大学に開設されたばかりの人文学部芸術学科に入学した。
「世間は学生運動真っただ中。同級生は次々と留置所に入れられました。僕もずいぶん活動に誘われたけど、なんせ団体行動が好きじゃない(笑)。だから僕は、ひたすら絵ばかり描いてました」
卒業後は恩師のすすめで、「講談社フェーマススクールズ」で添削指導をする講師のアシスタントに採用された。このスクールは'60年代に講談社の野間省一社長がアメリカから導入した美術の教育システムの一環で、講師は一流ぞろい。厳しい指導で知られ、通信課程ながら本格的に美術の道を目指す受講者が全国から集った。
「アメリカから責任者が来て、日本の講師陣に容赦なくダメ出しするんです。僕はただのアシスタントですから、ほかの先生の仕事を見て勉強するしかありませんでした」
芸大出身や、高名な美術団体に所属する講師陣が並み居るなか、下働きの苦しい日々が続く。しかしあるとき任された仕事が評価され、講師に昇格することができた。肩書でなく実力で勝負すべく、どんな絵でも早く確実に描けるよう努力を続け、実績を上げた。
「僕は子どものころから自由でいたいタイプだったから、美術の世界にはびこる“しがらみ”なんかは大嫌いでね。古い風習に惑わされず、目の前のことに全力で挑んで、チャンスをつかんできました。日本ではじっと我慢することを美徳とする文化があるけど、そういうのはあまり好きじゃない。若いころになんでもがむしゃらにやってきたからこそ、僕は70を過ぎても楽しくYouTubeに挑戦できたと思うんです」