10代で味わった天国と地獄

『ぼくらの勇気 未満都市』('97年、日本テレビ系)のリュウ役でブレイク。当初はエキストラ予定だったがKinKiKids(当時)の敵役・リュウに抜擢され、最終的には人気キャラに
『ぼくらの勇気 未満都市』('97年、日本テレビ系)のリュウ役でブレイク。当初はエキストラ予定だったがKinKiKids(当時)の敵役・リュウに抜擢され、最終的には人気キャラに
【写真】「イケメンすぎる」ファンレターが毎日届いていたという当時の徳山

 中学2年生で東村山から杉並へと引っ越し、転校先で周りになじめなかった徳山はより真剣に芝居に向き合っていくようになる。ロビン・ウィリアムズやゲイリー・オールドマンといった演技派俳優が好きな徳山はテアトルアカデミーの選抜クラスに入ることになり、そこにはこれまでの友達とは違うタイプの男子が集まっていて、彼らと自然と一緒に遊ぶようになったという。

 高校への進学はまったく考えていなかったというが、両親や事務所のすすめで堀越高等学校へ入学する。

同級生は今の六代目中村勘九郎(当時、二代目中村勘太郎)、佐藤江梨子、安達祐実、金子ノブアキですね。でも僕、高校はほとんど行けなかったんですよ。週に2日行くかどうかで、なかなか会えないから“レアポケモン”って言われてました(笑)。

 1年生のときにオーディションで受かった映画『稚内発 学び座~ソーランの歌が聞こえる~』で北海道で2か月撮影したときは安達祐実ちゃんと一緒で、『学校で隣同士の席なのに、北海道でお芝居してるって不思議だね』って話してました」

 忙しくて部活に入る時間がなかったため、自主的に街のボクシングジムへ通って「1人ボクシング部」を自称していた。

 高校1年生だった徳山が、オーディションのため当時麹町にあった日本テレビへ行ったときのことだ。マネージャーから「オーディションがなくなった」と言われ、たまたま同じ日にやっていた別のオーディションへ急きょ参加することになる。それがドラマ『ぼくらの勇気 未満都市』だった。

「僕はレギュラーエキストラのリュウという役だったんですが、『未満都市』は子どもたちが毎週死んでいく展開で、その回だけエキストラにもセリフが1、2行あったんですね。でも僕は自分のやりたいことをきちんと見つけたいと生意気にも思っていたので、このままエキストラの役なんだったら早くドラマを辞めさせてくださいとスタッフの方に話をしにいったんです。

 そうしたら『ちょっと待ってて』と言われて。それである回の台本をもらったらセリフが1、2行どころじゃなくて、リュウが主演のKinKi Kids(現在はDOMOTO)の2人を激しくいじめる敵役だったんです」

 その回の放送後、徳山を取り巻く事態が一変した。

「それまで僕の名前なんて誰も知らなかったのに、放送の翌日にいつもどおり外出したら、もう歩けないくらい人に囲まれちゃって、急に有名人になってしまったんです。ドラマの撮影は河川敷にでっかいセットを建ててやってたんですけど、遠くからロケを見学するファンの方たちの大声援が聞こえていて、僕には『消えろ! やめちまえ! いじめるな!』で……反応がとんでもなかったです(笑)。

 でもリアリティーのある芝居をやりたかった僕としては『してやったり』だったんですよ。でもその後、共闘するようになってリュウがどんどんいいやつになっていくと、黄色い声援に変わったんですよね。『リュウく~ん!』みたいな」

『GTO』('98年、フジテレビ系)のケンジ役を好演。昨年のリバイバルにも出演し、「年をとらない!」とその若さが話題に(徳山は写真最前列右)
『GTO』('98年、フジテレビ系)のケンジ役を好演。昨年のリバイバルにも出演し、「年をとらない!」とその若さが話題に(徳山は写真最前列右)

 翌年には大ヒットドラマ『GTO』に生徒の依田ケンジ役で出演。当時は段ボール2箱ほどのファンレターが毎日届いていたというから、どれほどの人気だったのかがわかるだろう。

「このころは本当に記憶にないほどアホみたいに頑張ってました。若いパワーで本気でお芝居して、遊んで、やんちゃして、悩んで、みたいな。努力なくして成功はないですけど、さらにそこに嘘みたいな運が味方してくれた。

 11歳のときからずっと頑張ってきたことで、宝くじに当たるよりもすごい確率のものをたぐり寄せたのかな、と今になって思いますね」

 ところが好事魔多し。あまりに人気が出すぎたことで業界のパワーゲームに巻き込まれ、オーディションに呼ばれなくなったり、無視や衣装を隠されるなどの嫌がらせをされたり、さらにはそのあまりに厳しい状況におそれをなして親しい人が離れていったりなど、いわゆる“干された”状態になったという。そんな苦しい状況を救ってくれたのが「音楽」だった。

「16歳のときに音楽の仕事の話が来て、それまで聴くだけだったので一生懸命ギターを練習して、ボイストレーニングも1年間欠かさずやったりしました。音楽をやってる方たちがすごい優しくて、大人な人たちだったから、そんな状況の中でも頑張れたんです。そのときの恩人が、L⇔Rの黒沢健一さんなんです」

 '99年、黒沢のプロデュースによる『あふれる思い』で歌手デビューを果たした徳山が今も音楽活動を大切にしているのは、このときの思いがあるからなのだという。

 そしてもうひとつ、徳山を救ってくれたのはファンからの手紙だった。

「3か月先までの仕事が雑誌の連載を書くくらいしかなくて。だけど街を気軽に歩けないほど人気がある。もうホント、意味がわからなかったですね。

 インタビューでテレビには出ないのかと聞かれて『出たくないから音楽やってます』とか答えていたんですが、『出られない』が本当で……。

 だから頂くファンレターが本当にありがたくて。なのでこれは当時からなんですけど、自分の気持ちを落ち着かせるため、いつもファンレターを持ち歩いているんです。今もバッグに必ず1、2通入れています」

 苦しいときを救ってくれた恩返しのため、今も徳山は何よりもファンを大事にしているという。

 しかし事務所移籍に伴うゴタゴタに巻き込まれたあげくに冷遇され、完全にやる気を失ってしまった徳山は、本気で役者の仕事を辞めることを考え始める。