「生涯最後の登山は富士山でした」病室での会話と引き継いだ遺志
この記事が掲載された2014年に田部井さんは脳腫瘍を患い、その後、腹膜がんの再発がわかる。療養を続けながら、'16年7月には富士登山プロジェクトの総隊長として富士山に向かった。
思うように動けない田部井さんに代わり、東北の高校生たちを登頂に導いたのは息子の進也さんだ。当時の田部井さんの様子を進也さんは、こう振り返る。
「病院の先生からは、バスで行ける5合目までにしてと言われたんです。でも、母は先生には黙って、親父と一緒にゆっくりゆっくり3010メートル(7合目付近)まで上がっていったので、身体は相当大変だったと思いますよ。それが生涯で最後の登山になりました」
本人の希望で緩和ケアに移り、亡くなる2、3日前のこと。進也さんが1人で付き添っていると医師から「1日単位の命だと考えてください」と告げられた。
「明日はもう話ができないかもしれない」と思った進也さん。ベッドに横たわる母親にこう声をかけた。
「今までありがとう。好きだよ」
「お母さんも好きよ。山よりも好き」
返ってきた言葉を聞いて、進也さんは「面白いな」と感じたという。
「そこも山なんだねと(笑)。でも、あのとき『好きだよ』とちゃんと伝えられたから、今こうやって、おふくろの話ができるんだと思います。弱っていく母の姿を見ているのはちょっとキツかったけど、最後にいろんな話をできたのは、本当に幸せでした。
富士登山に来る高校生の中には震災遺児の子もいて、彼らはあの朝『行ってきます』と言って、そのまま親に会えなくなった。それに比べたら、はるかに僕は恵まれているじゃないですか」
2016年10月20日。田部井さんは腹膜がんで逝去。享年77だった。
だが、進也さんは悲しみに浸る間もなく、富士登山プロジェクト存続のために奔走することになる。
「おふくろが死にましたと言った瞬間に、ブスッと(支援を)切った会社さんもいましたから。大人って、すごくわかりやすいなと(笑)。しかも、母が生きていたころより、今は経費が2倍ぐらいになっているんですよ。バス代、宿代、ガイド代とか1回で1千万円くらいかかるから、ほんと、めちゃめちゃ大変ですよ」
進也さんは一般社団法人田部井淳子基金を設立し、新たな支援先を探したり、全国に広く寄付を呼びかけたり……。2025年夏までに登頂した高校生は854人に上る。
そこまでしてプロジェクトを実施する裏には、どんな思いがあるのか。
「そもそも僕自身が被災者だったんです。経営していたロッジが地震で損壊して、現地では大変な状況が続いて。そこに原発事故があって、外で遊んじゃダメとか、避難しなきゃいけないとか、大人の都合で制限させられる子どもたちの姿を見て、申し訳ないなという気持ちがずっとあったんです。だから彼らが成長するきっかけをつくることができたらなと。
富士山に登頂して自信がつけば、何か自分がチャレンジしたいと思ったときに、一歩踏み出すハードルが下がると思うので」
そして、「あとはね……」と進也さんが続けて口にしたのは意外な理由だった。
「おふくろが亡くなったときに“このプロジェクト自体、どうせやめるんでしょ”
ってある人に言われたんですよ。その人たちを見返したいという反骨心もあります。だったら続けてやろうと(笑)」
その反骨心はお母さん譲りかと聞くと、進也さんは笑ってうなずく。
「おふくろもね、エベレストに女だけで行くのをダメって言われたら、絶対行ってやるみたいになった。同じじゃないですか(笑)」
田部井さんも、息子の奮闘ぶりを喜んでいるに違いない。
<取材・文/萩原絹代>












