1950年代のアイドル的存在だった鶴田浩二さんへの襲撃は日本中に衝撃を与えた
1950年代のアイドル的存在だった鶴田浩二さんへの襲撃は日本中に衝撃を与えた
【写真】山口組組員に襲撃された昭和大スター、組を全国規模に押し上げた田岡一雄

 国民的歌手と裏社会の大物は、なぜ接点を持ったのか。昭和の芸能史に詳しいノンフィクションライターの二田一比古氏に話を聞くと、そこには当時の地方興行の構造が大きく関係していたという。

「前提として、戦前から1980年代ごろまでは、歌手にとって最も大きな収入源は地方巡業だったんです。テレビが各家庭に完全に行き渡る前は、今のように広告収入も多くありませんし、映画やラジオは人気を広げるための手段でした」

 当時の歌手はレコード会社の専属契約が多く、印税も期待できない時代。歌手の生命線である地方巡業だが、簡単に公演ができたわけではなかった。

歌手が歌う場所はキャバレーなどが中心でした。そうした店は、だいたいその土地を仕切る暴力団の縄張りでもあります。そのため地方で公演を行うには、彼らとの交渉が欠かせませんが、相手は暴力も辞さない集団。巡業の取り分の交渉も一筋縄ではいきません。当時の芸能プロダクションには、そうした相手と直接やりとりする専門の担当者が必ずいたほどでした」(二田氏、以下同)

襲撃された大スター・鶴田浩二さん

 暴力団の資金集め、いわゆる“シノギ”だった地方巡業。組長に就任したばかりの田岡も興行の世界に目を向けて芸能プロモーターとして巡業を仕切るように。若かりしひばりさんと接点を持つようになった。

「興行の世界で田岡の名を知らしめた出来事のひとつが、1953年に起きた当時大スターだった鶴田浩二さんへの襲撃事件。鶴田さん側と田岡側の間で興行をめぐる行き違いがあり、関係が悪化。のちに鶴田さんは山口組組員に襲撃されて重傷を負いました。この事件以降、芸能界で“田岡を軽んじれば報復される”といわれるようになりました」

 混沌とした昭和の時代。芸能人を守るためにも、興行を成立させるためにも、力を持つ者の後ろ盾が必要とされたのだろう。