田岡一雄の写真が使われた書籍。一時は“大阪から西は山口組を通さないと興行できない”といわれていた
田岡一雄の写真が使われた書籍。一時は“大阪から西は山口組を通さないと興行できない”といわれていた
【写真】山口組組員に襲撃された昭和大スター、組を全国規模に押し上げた田岡一雄

「1957年1月、ひばりさんは東京での公演中、嫉妬したファンの女性から塩酸をかけられる被害に遭いました。軽傷で済んだものの、当時、ひばりさんのスター性を高く評価していた田岡は、周囲に“お嬢の身はワイが命に代えても守る”と語ったそうです」

 塩酸事件の約3か月後、田岡は興行を仕切る神戸芸能社を設立。翌年には、ひばりプロダクションの役員にも名を連ね、名実ともにひばりさんを支える存在となっていった。

「ひばりさんにとって、田岡の後ろ盾は絶大。地元の暴力団にも臆せず、地方巡業を安全かつ確実に行えるようになり、歌手としての人気はさらに高まっていきます。田岡も彼女の興行を手がけたことで、ほかの有名タレントの巡業も仕切るようになりました」

 24歳差だった2人は、仕事を超えて父娘のような信頼関係を構築。1962年にひばりさんは小林旭との婚約を発表。そして1964年の事実婚解消の際は田岡がひばりさんの父親代わりとして交渉の前面に出たとされる。

紅白出場からも遠ざかることに

 しかし、暴力団に対する世間の意識は徐々に変わっていく。1964年から警察による“第一次頂上作戦”と呼ばれる暴力団一斉取り締まりが開始。神戸芸能社も公共施設を使用できなくなるなど、興行の場が狭められ、やがて解散へ追い込まれていった。

「1973年には、山口組との関係を問題視されたひばりさんの公演も、全国の市民会館といった公共施設から締め出されるように。加えてこの年以降、ひばりさんは『紅白歌合戦』への正式出場からも遠ざかることになりました」

 興行の表舞台から退いていった田岡は、1981年に68歳で死去。ひばりさんは田岡の葬儀で“その人柄に惚れ込み、深く尊敬していました”という趣旨の弔辞を読むなど、最後まで田岡を慕っていたとされる。

「暴力団との関係が肯定されるものではありませんが、当時の芸能界は、地方興行を成立させるために、暴力団の存在が“必要悪”として受け止められていたのは事実。泥くさい人間関係と、現場の熱量で動いていた時代だったのだと思います」

 美空ひばりさんという輝やかしいスターの背後には、昭和の光と闇が色濃く刻まれていたーー。