夢枕に立った「前川清」が純烈の起点
25歳で『百獣戦隊ガオレンジャー』に出演したその3年後、酒井は結婚する。
「一般的には、お金を貯めてから結婚しようと考えるかもしれないけど、そんなことはルールで決められてないんやから、先に結婚して、子どもをつくって、家庭を築こうと。僕が売れるのはだいぶ先。『お金は後から入ってくるから大丈夫や』って」
自らの親にも、「親孝行はできないけどごめんなさい」と開き直っていたという。
「最終的に勝てばええやんって思ってました。僕、ガオブラックを1年間演じていたでしょ。ブラックのドラマ内の口癖が、『ネバーギブアップ』。不思議と自分の一部になってくるんです。諦めなければ逆転できるという自信があった。親にも妻にも迷惑をかけたからこそ、絶対にそれはやらなあかんと」
そんな酒井に、思いもよらぬ試練が訪れる。31歳のとき、映画の撮影中に右足首を複雑骨折。医師から「以前のように歩ける保証はできない」と告げられた。
「これまでのように役者を続けられるかわからない。妻と2人の子どもをどうやって養っていけばいいのか、さすがに不安になりました。ただ、このまま役者を続けていてもあかんかもと思っていた矢先のケガだったので、結果的に入院中は自分を見つめ直す時間になった」
ベッドで横たわる酒井は、本人ですら説明のつかない体験をする。
「夢枕に前川清さんが立ったんです。当時はまったく面識もない。なのに、3日連続で夢の中に現れた」
何かのお告げだと受け止めた酒井は、目が覚めると改めて前川のことを考えた。
「そういえば、前川さんって直立不動で歌っているよなと。これやったら、足をケガした自分でもできるやん。でも、僕は歌はそんなに得意じゃない……ん? 前川さんって『内山田洋とクール・ファイブ』のボーカルで、コーラスがいたな」
答えは、不意に舞い降りた。
「そうだ。自分がコーラスとなる男性歌謡グループに挑戦しよう」
腹を決めた酒井の行動力は、変身したヒーローさながらだ。同じく戦隊シリーズ(『忍風戦隊ハリケンジャー』)に出演したものの思うような仕事が得られずくすぶっていた白川裕二郎を呼び出し、ひたすらファミレスで口説き続けた。
「白川は、イケメンで歌もうまいから彼をメインボーカルにすれば道が開けると思った。『紅白に出て親孝行しようぜ』と熱弁したんです」
白川が首を縦に振ると、続けて『仮面ライダー龍騎』に出演していた小田井涼平、『仮面ライダーアギト』に出演していた友井雄亮が合流。
「白川は釣り好きが高じて日焼けで真っ黒だったので、中和させるために色白のイケメンが必要だと思った。そこで、事務所の社長に色白のイケメン、そしてとにかく運のいい人間は知りませんかと聞いたら、『車にはねられても死ななかったイケメンがいる』と。そいつを連れてきてくれるよう頼んで現れたのが、後上翔太です(笑)」
そして、音楽的素養のある人物として、'98年から'00年までヴィジュアル系ロックバンド「BLue―B」のボーカル「TATSUYA」として活動していた林田達也を加え、'07年に男性歌謡コーラスグループ「純烈」は誕生する。合言葉は、「夢は紅白親孝行」である。
当時を林田が振り返る。
「なかなか個性が強い大人5人をまとめなければいけないので、リーダーである酒井さんは大変だったと思います。お仕事もまったくない状態でしたから、紅白なんて先のまた先のステージで何のことやらです(笑)。目先のお仕事を全力でやるだけでした」
グループはボイスレッスンなど3年の下積みを経て、'10年に『涙の銀座線』でメジャーデビューにこぎつけた。
しかし、CDは売れず、その2年後には当時の所属レコード会社から契約を打ち切られた。主な仕事は、都内のキャバレー3か所で月に1回ずつ歌うだけ。
「当時、純烈としての僕の年収は2万5000円やった。ほかの仕事をかけ持ちしながら続けていた。今でこそ、僕は“頑張った人”みたいに言われますけど、家族やメンバーには苦労させた。でも、この下積みがなければ純烈は売れないとも思っていた。我慢してもらうしかなかった」
そう酒井は打ち明ける。紅白など夢のまた夢。だが、林田は事もなげに言う。
「辞めたいと思ったことはありません。純烈が掲げている『夢は紅白親孝行』を叶えるために、僕としては何でもいいので爪痕を残さないとって思ってました」(林田)



















