'18年に叶えた紅白出場

 この“まっすぐさ”が、次第に伝わっていく。偶然キャバレーに来ていたテリー伊藤が、「この時代にムード歌謡をやるなんて面白い」と自身のラジオで取り上げるや、健康センターのステージに呼ばれるようになった。

「人口分布を見れば、年配層がいちばん大きなボリュームゾーンなんです。でも、その人たちに向けたエンターテインメントが少ないと感じていた。だから、僕は男性歌謡コーラスグループ=求められている娯楽だと思ったわけです。実際、健康センターで歌うようになって、それを目の当たりにした。おまけに、好きなだけ風呂にも入れて、ごはんもいただける。言うことないやんって。メンバーを集めて、『健康センターが俺らの命運を握っているぞ。絶対に取りにいく』と発破をかけた」

 当時、健康センターのステージといえば、大衆演劇が定番。照明や音響設備は本格的で、何より客の目は肥えている。“ドサ回り”と聞くと、都落ちのような印象を抱く人もいるかもしれない。だが、そこでしか鍛えることのできない表現者としての筋力が確かにあった。平均身長が180センチを超える純烈は、ステージ映えも抜群だった。

「お客さんとの距離も近いから、まったく手は抜けない。そして、見に来ているおばちゃんやおっちゃんが求めていることをしないといけない。幸い、僕らの多くが特撮出身だったので、『後楽園で僕と握手!』の経験がある。そのおばちゃんバージョンをし続けました」

 熱を帯びた口調で、さらにこう続ける。

「僕らは、そこで働く人やお客さんと同じ仲間。一緒に風呂に入っていたし、一緒にごはんも食べた。『こんなん聴きたいわ』とリクエストされたら、白川に『あのおばあちゃんが聴きたい言うてたから歌えるか?』と相談する。ステージ上だけが僕らの居場所やないぞと。たまたま、ステージ上で歌を披露している。そういう感覚なんです」

「人をアシストするほうが好き」と語る酒井一圭
「人をアシストするほうが好き」と語る酒井一圭
【写真】今とはまるで別人!? “Vシネマ俳優”だったころの純烈・酒井一圭

「売れる方法」を探したのではなく、「誰かが喜ぶ場所」を探し続けたからこそ、純烈は支持され、「スーパー銭湯アイドル」と呼ばれるようになっていく。中には、整理券を得るために、前日から泊まり込んで彼らのステージを待つ純烈ファン「純子」「烈男」も現れた。大広間にぎゅうぎゅうに集まったファンの熱気で、窓ガラスが白く曇る。はたから見れば何げない郊外の健康センターだが、外からは想像もできないほどの熱狂が、そこにはあった。

 その最中の'16年、林田が家族のサポートを理由に年内卒業を発表する。

「離れはするけど『売れてほしい』。その一心でした」(林田)

 現在は、自身のジュエリーブランド「オシェル」を立ち上げ、デザイナーとして活動する。'24年に行われた日本武道館公演では、林田はスペシャルゲストとして久々にファンの前で歌を披露した。

「僕のことを知らないファンの方も受け入れてくれてうれしかったです。リーダーは、9年間も一緒にいたので、良き理解者だと思ってます。健康に気をつけて、まだまだ芸能界を楽しんでほしいです」(林田)

 メンバーの卒業。そして、父親の急逝も大きかったと酒井は振り返る。

「紅白に間に合わなかったというやりきれなさ。自分に腹が立ちました。それまでは、きれいごとを言うこともあったんです。例えば、今いるスタッフ全員で紅白に行こう、とかね。親父が死んで、自分でも知らない隠しギアが出てきた。それをオンにして、もっとシビアに紅白をつかみにいかなあかんと吹っ切れた」

 年間450ステージをこなした。9枚目のシングル『プロポーズ』は、オリコン演歌・歌謡曲ウィークリーチャート1位を獲得した。その果てに、ついに'18年に紅白出場を叶えた。

「メンバー全員、号泣ですよ」

 昨日のことのように酒井は笑う。

「ここまで来れたのは、ファンのおかげ。僕らは連れてきてもらったにすぎない」

 事実、紅白のステージを終えた純烈が向かった先は、華やかな打ち上げの場ではなく、草加(埼玉県)・厚木・相模(共に神奈川県)の健康センター。待ち構えるファンの前で、深夜の凱旋ライブを届けた。「ただいま」と言える場所がある。それは、酒井にとって何よりの原動力なのかもしれない。