会社に居場所がない、忘れもしない屈辱の言葉

「入社して20年ぐらい、会社の中に私の居場所はずっとなかったんです。だからこそ、米ぬか靴下をどうしても作りたかった」

 鈴木さんはしみじみ、そう回想する。1958年生まれで、2人姉弟の長男。跡取りで、なおかつ鈴木さんと同じ年に「鈴木靴下」が誕生しているから、2代目として多少甘やかされて育ったのかと思いきや、そうではない。前社長で父親の勇一さんは、息子を相当厳しい環境に置いて育てたようだ。

 まず近畿大学に進学しても、工場の夜勤要員をさせられた。同級生がバイトだ、コンパだと楽しんでいるとき、平日夜7時から深夜2時まで(土曜日だけ夜12時まで)働いた。繁忙期には田んぼの手伝いにも駆り出された。友達とも予定が合わず、遊べない。

 就活シーズンになると、両親に「就職はせず家業を手伝って」と懇願される。しかし任された仕事は、学生のときと同じ夜勤だった。

「その上、内職の人の家を回って仕事の依頼と回収、糸が搬入されたら工場内に運んで所定の場所に置いたり、古い資材を片づけたり。工場の人たちが作業しやすい環境を整える仕事も加わりました。同じ仕事を来る日も来る日も判を押すように繰り返していました」

刺しゅうを外注先に依頼し、完成品を持ち帰る入社当時の鈴木和夫さん
刺しゅうを外注先に依頼し、完成品を持ち帰る入社当時の鈴木和夫さん
【写真】「締め付けない、きつくない」保湿作用もある『米ぬか靴下』

 結婚後、風向きが変わるかもしれないと希望を持てた瞬間もあった。

 妻が大阪の大手スポーツ用品メーカーに勤務していたため、営業して仕事を取ってこれないかと、当時の勇一社長に提案されたのだ。

「その話がうまくいったら、おまえたち二人で開拓していったらええやないか」

 妻は難色を示したが、結婚式参列のお礼をかねて元いた会社へ二人で出かけた。すると半年後、サッカーストッキングの発注が舞い込む。“よっしゃー!”と妻と手を取り合って喜んだのもつかの間、社長が前言を翻した。

「俺とおまえの間には、番頭がいるということだけは忘れてはあかんぞ」

 結局、スポーツ用品メーカーの仕事は番頭が担当することに。番頭は鈴木さんより13歳上で、知識も経験も上だから致し方ない。鈴木さんは理不尽を甘受するしかなかった。

「家内には悪いことをしたなと。無理言って営業してもらったのに、私は期待に応えられなかった。本当に情けないというか……」

28歳当時、先代社長でもあった父・勇一さんと北陸の社員旅行にて
28歳当時、先代社長でもあった父・勇一さんと北陸の社員旅行にて

 '87年に関わり始めたサッカーストッキングの仕事は、メーカーの高い評価を獲得。'93年にJリーグが開幕すると、鈴木靴下にとって大きな仕事となっていく。やがて、サッカー日本代表チームやJ1リーグに所属するチームのストッキングも作ることに。

 ただ、鈴木さんの仕事はほとんど変わらなかった。

「同級生にたまに会うと、会社でやりがいのある仕事を任されてる。バブルの時期で、給料も上がって楽しそうでした。自分ときたら、打ち込める仕事がなく、居場所もない状態でしたから」

 今でも話し始めると、つい拳が硬くなるほどの悔しい体験をしたことがある。

 会社が得意先を招いてゴルフコンペを催したときのこと。夜の懇親会の際、得意先の、鈴木さんと同じ35歳ぐらいの社員からこんな言葉を浴びせられた。

「あんた、何も仕事してないんやから、せめて手でも叩いてもっと盛り上げろよ。それぐらいの接待はせえ。何も役に立ってへんやないか」

 鈴木さんは顔をやや紅潮させてこう振り返る。

「悔しくて悔しくて。そういうふうに人を見るかと思ってね。今までいろんなことがあっても耐えられたけど、これだけは忘れられません。下で支える仕事に対する評価はこの程度なのか。外から見えにくい仕事は評価されにくいんだ、と痛いほどわかりました」

 番頭は40代後半、脂が乗り切った時期だから、鈴木さんに仕事を回すことはない。「かわいそうだ」と言う従業員もいたが、勇一社長は甘い顔を見せなかった。

「おまえが何かしたければ、自分で考えて、時間をつくってやればいい。そんなこと人に聞くもんやない」

 奮起して39歳のとき、ゴルフ用靴下を開発。靴下の足底部に特殊なクッション素材をつけ、疲れにくい靴下を作ったのだ。評判はよく、大手デパートやゴルフ場などでも販売され、4万足以上を売り上げた。だが1アイテムだけで展開する難しさを感じた。