15歳で来日した際は175センチ、62キロ
ムンフバト・ダヴァジャルガル。白鵬の出生名である。父はモンゴル相撲の横綱であり、1968年のメキシコ五輪ではレスリングで銀メダルを獲得。モンゴルに初の五輪メダルをもたらした、国民的英雄だった。母は元外科医。5人きょうだいの末っ子ということもあって、「甘やかされて育った」と舌を出す。
「父は無敗だったのですが、当時の採点方式で総合2位に。金メダルを取った人とも引き分けて負けていない。だから、『いつか自分が金メダルを』という思いはありましたよね」
小学校6年生のとき、父に内緒でレスリングの道場に入門した。「驚かせてやろう」という子ども心からだったが、その姿を見た父はこう叱責したという。
「おまえにはまだ早いからやめなさい。バスケットボールをやりなさい」
なぜ怒られたのかわからなかった。だが後年、勝負の世界に身を置くようになって、あのときの父の真意が理解できた。
「まだ身体ができあがっていないなかで、負けて自信をなくしてしまったり、レスリングを嫌いになったりしてほしくなかったんだなと。私のことを考えて、怒ったのだと思います」
父もまた、息子に期待していたのだろう。だからこそ、可能性を狭めないように、大切に育てていたのかもしれない。
しばらくバスケットボールに夢中になったムンフバト少年に転機が訪れたのは、15歳のとき。知人である大相撲力士の旭鷲山が関わっていた、力士を目指す母国の少年たちを日本へ連れていくツアーに参加することになったのだ。
「当時の日本の印象は、母が大好きだった『おしん』を見ていた影響もあって、『貧しい国なの?』と思っていた。でも、当時モンゴルで放送されていた『ラブジェネレーション』(フジテレビ系)を見ると『すごい華やかで都会だな』って。『どっちが本当の日本なの?』なんて思っていましたね(笑)」
たどり着いた先は、そのどちらでもない大阪府大東市にある、実業団相撲の名門・摂津倉庫。ムンフバト少年を含む7人は、6階の宿舎で寝泊まりしながら、3か月間、週3回のペースで稽古に励み、稽古のない日は大阪の街を巡る─いわば、体験留学のようなツアーだった。白鵬自身も、「私も父も、3か月で帰国するものだと思っていた」と振り返る。
だが、しばらくすると、仲間の3人がスカウトされる。すでにモンゴル国内では、旭鷲山、旭天鵬が国民的な人気を誇っていたこともあり、日本の大相撲は、腕に覚えのあるモンゴルの少年にとって一攫千金の夢舞台でもあった。
「当時、私は175センチ、62キロしかない。日本語も話せないから、自分をアピールすることもできない。3か月たっても声がかからず、帰国のための飛行機のチケットをもらいました。公衆電話から両親に電話して、『オリンピック選手になりますから、いい先生を紹介してください』と伝えた」
その日、声がかからなかった少年たちをねぎらうため、「さよなら食事会」が開かれたという。
「認めてもらえなかった」
何ともいえない悔しさを抱えながら、宴席で思いを巡らせていると、一本の電話が摂津倉庫会長・浅野毅氏のもとにかかってきた。当時の宮城野親方(元幕内・竹葉山)からだった。
「親方は私のことを見ずに、“若い”という可能性だけを買って、声をかけてくれた」
モンゴルの両親のもとにも、「息子さんの入門を許可していただけますか?」という連絡があった。宮城野部屋には、モンゴル出身の龍皇(最高位西前頭八枚目)がいたこともあり、孤立することはないだろうと父も首を縦に振った。
「当時は体格基準があったので、新弟子検査に間に合うように『ひたすら食べろ』と言われてね。関取より先にごはんを食べて、あとは寝るだけ。こんな楽な仕事があるんだなと驚いた」
わずか1か月半で体重は18キロ増え、無事、新弟子検査に合格した。
「その日を境に、それまで優しかった先輩はいなくなったね」
遠い記憶をたどるように、白鵬は微苦笑した。



















