『涙そうそう』を聴いて日本語を覚えた

 朝起きると、30分から40分、ひたすらぶつかり稽古をする。息が切れ、土俵に突っ伏していると、口の中に塩をねじ込まれる。

「しょっぱさで身体が飛び上がるんですよ。起き上がったところに冷水をぶっかけられる。不思議と頭がすっきりして、身体がまた動く。この繰り返し。一日に3回は泣いてました(笑)」

 何不自由なく育った白鵬を待ち受けていたのは、異国の地での厳しく独特な稽古だった。それが、彼にとって容易に乗り越えられる試練でなかったことは想像に難くない。

「逃げ出したら、父の名誉に傷がつく。強くなるしかない。それだけでした。土俵で泥だらけになる分だけ、つるつるだった心臓に毛が生えていった」

宮城野部屋に入門したころの白鵬。175センチ、62キロだった
宮城野部屋に入門したころの白鵬。175センチ、62キロだった
【写真】「175センチ、62キロしかなかった」来日当時の白鵬

 日本語は、夏川りみの『涙そうそう』を繰り返し聴いて、徐々に覚えていった。

「沖縄の歌だからゆっくりで聞き取りやすかった。癒されたね」

 夜になると、また朝稽古が始まると思って、自然に涙が流れてきた。その経験があるからこそ、

「62キロで入門しても強くなれるということを、私は証明できたと思う。だから、簡単に諦めないでほしい。そういうメッセージも発信していきたい」

 そう言って破顔する。

 身体はまだ十分にできあがってはいなかった。だが、師匠である当時の宮城野親方は、雑誌のインビューでこう振り返っている。

「まわしの切り方とかおっつけとか、普通の力士が1年かけて覚えることを半年で身につけた」

 父譲りの抜群のセンスに加え、なかなか土俵を割らない天性の柔らかさ、100メートルを12秒台で走る瞬発力があった。「ひょっとしたら大化けするかもしれない」。願いを込めて、柏戸と大鵬、2人の大横綱から名を拝借し、「白鵬」という四股名がつけられた。柏鵬にしなかったのは、「万が一、大成しなかったら」という理由だが、今となっては杞憂だろう。

「でもね、私の初土俵は3勝4敗で負け越し。75人いる歴代横綱の中で、負け越しデビューをしたのは、宮城野部屋をおこした吉葉山、初代若乃花、そして私の3人だけ。『横綱になるぞ』と意気込んでいたけど、遠い夢に感じてしまった」

白鵬、2001年の初土俵入り
白鵬、2001年の初土俵入り

 躊躇なく鍛錬の日々に身を投じた。舞の海や千代の富士といった、決して身体の大きくない力士の映像を幾度となく見返し、身体の使い方を磨いた。日本語が理解できるようになるにつれ、親方、兄弟子の教えがさらに深くわかるようになった。18歳10か月という若さで新十両に昇進すると、異例の早さで番付を駆け上がっていった。

「宮城野部屋は、稽古が終われば、先輩たちが『おまえのためだぞ』とねぎらうように肩に手を置いてくれる、そんな温かさのある部屋だった。小さな部屋だったから、私は成長することができたと思う」

 実は、来日していた15歳のムンフバト少年は、ある大きな部屋からも関心を寄せられていたという。だが、浅野会長は、「その部屋では続かない」と判断し、白鵬に伝えることなく、申し出を断った。

「もしその部屋に入っていたら?」と尋ねると、「大きな部屋だから勝手が違うからね。つぶされていたかもしれない」。

 人や環境に恵まれたからこそ─。その大切さを、白鵬は身をもって知っている。