なぜ、どのようにして「戦後最大の犯罪」は起きたのか……。その謎はまだ十分に解き明かされていない。

 社会を震撼させた地下鉄サリン事件の発生から20年。節目を迎える今、ここからオウム真理教に迫る。

河野さん (2)
信者が使用していた『ヘッドギア』

「役場や警察、裁判所に訴えても手助けしてくれない。孤立無援の闘いだった」

 1989年、オウム真理教が山梨県上九一色村富士ヶ嶺(現・富士河口湖町)に進出してから撤退するまでの7年間を対策委員会の中心メンバー・竹内精一さん(86)は、そう振り返る。

「村の約7000平方メートルの土地に高い金属塀を張り巡らせ、7~8人の木刀を持った若い信者が門前で通行人にカメラを向ける。車のナンバーも控えて威嚇していた。やつらは一体、何をするんだ……とすぐに不信に思いました」

 正体不明の廃液によって牧草は枯れ、昼夜問わず鳴り響く騒音に悩まされた。教祖の予言を信じ込み、“聖地”を守ろうと躍起になる信者たちの姿に、住民はいち早く、その異様さを感じ取っていたという。

「’90 年には、対策委員会が発足し、住民転入届の阻止と追放運動を進めました。監視小屋を建て、24時間交代で奇行を記録し続けた」

 しかし、約700人の住民が一丸となって結束の勢いを強める中、村は信徒27人の住民票を受理。

「“住民が、住民を監視するのはおかしい”という意見が出て、1年で反対運動は停滞してしまいました」

 抗議の声を弱める住民をあざ笑うかのように教団は活動拠点サティアンを拡張。さらに約1万3000平方メートルの土地を購入した。

「役場や保健所に立ち入り調査を何度依頼しても、慎重な姿勢を崩さなかった」

 竹内さんは、教団内部の実態を把握するため、ついに自ら脱走信者の保護を始める。内部告発による、情報収集に望みをかけたのだ。

「接した若者はみなまじめで驚きました。でも、教祖の指示なら平気で人も殺せるような反社会的集団だということもよくわかった」

 活動の邪魔をする住民宅や公民館に盗聴器を仕掛けられ、身の危険を感じても一歩も引かぬ姿勢を貫いたのにはわけがある。

「オウムという集団がどんなやつらなのか、世に知らしめたかった。知らないことがいちばん恐ろしい」

 地下鉄サリン事件の前年、村では2度の異臭騒ぎも起きていた。

「サリンが製造されていた第7サティアン付近で住民と警察が一緒に異臭を確認し、防毒マスク姿の信者も見ています。あの時、立ち入り調査をしていれば……」

 暴走する教団の行く末を予感し続けた竹内さんは、今なお“事件は防げた”と確信を抱いている。