「師匠のもとに行きたいという一心で自分から東京に行きたいと言いだしたんですね。そうしたら、師匠が“僕は慶応だから受けてみたら”って言われたんです。でも、学校の先生に相談したら、“何バカなこと言ってるんだ”と。

 そりゃ、6年生の秋ですからね(笑)。でも、それから一心不乱に勉強しまして、おかげで合格しました。だけど、合格してなくても東京に出てきたと思うんですよ。ただ、師匠のことを大崇拝していたので、頑張りました(笑)」

 上京すると、赤坂にあった先代猿翁の奥様が経営するアパートで、ひとり暮らし。そこは師の書斎もあり、右近少年にとって刺激的な毎日だったようだ。

2階には銀座のママさんが住んでいたり、お隣は赤坂の有名キャバレー『ミカド』のナンバーワンホステスさん。学校から帰ってくると1号室の奥様に先代の芝居のお話をうかがったり、ノーメイクのミカドのお姉さんが“パチンコ行くよ”って付き合わされて赤坂東急にある蕎麦屋にお姉さんは遅いランチを食べて、それで帰ってきてね。

 でも、夕方になるとパリッとメイクし着物をばっちり着て“行ってくるよ、右近ちゃん!”って。これがまたカッコいいんですよ。でも、朝になって学校へ行こうとすると、お姉さんがフラフラになりながら帰ってくるというね。上京していきなり花柳界に囲まれちゃった感じですよ(笑)

独立、そして香川照之との確執は

 今回は、猿之助一門である澤瀉屋から離れ、新しく高嶋屋に屋号が変わる。40年以上も籍を置いていただけに、寂しさはないのだろうか─。

「澤瀉屋から高嶋屋に変わるわけですが、師匠と弟子の関係はまったく変わるものではありません。師匠の創造の精神や理念というのは屋号や名前を超えても広く歌舞伎界に伝えていかなければなと。

 それが、未来に師の名前を残すことになるんじゃないかなと思っています。ですから、まったく澤瀉屋から離れるわけではありません。市川右近という名前をここまで育ててくださいましたし、当然、息子は澤瀉屋として修業させます」