新しい東京の喜劇を目指して旗揚げ

 大学を卒業して、日本テレビタレント学院に入るも「子どもばっかりで、あれ、違うなと」。でも、そこからケーブルテレビの実験放送の司会を紹介され、テレビのスタッフも始める。そのうち「東京新喜劇」の旗揚げを雑誌で知った。

「そこを受けて入って、のちに『大江戸新喜劇』となるんですけど。やってるうちに、これもちょっとやりたい笑いと違うなと」

 そこでついに、行動をともにしてきた小倉久寛たち15人を引きつれて、SET(スーパー・エキセントリック・シアター)を旗揚げする。三宅裕司28歳のときのことである。その後も一貫して三宅がこだわる新しい東京の「笑い」のスタートである。

「このころに隆盛していたアングラの芝居が苦手で、誰でもがわかる、楽しめる芝居がやりたいなという思いがずっとあった。それでSETでは『ミュージカル・アクション・コメディー』という形を作ったんです。もう生活なんて誰もできないから、バイトするのは当然。やりたいことができたっていうだけで頑張りましたね」

ミュージカル・アクション・コメディーという新しい演劇のスタイルを求めてSETを立ち上げた
ミュージカル・アクション・コメディーという新しい演劇のスタイルを求めてSETを立ち上げた
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 それから38年間、三宅は「俺のいうとおりやればお客さんが笑う」ことを証明し続けている。このときの旗揚げメンバーのひとり、小倉久寛はこう語る。

「僕はもう大学卒業してたかな。ひょんなことから、芝居やろうって気になっちゃって。情報誌見たら『大江戸新喜劇』っていうのが目に飛び込んできて、行ったら三宅さんが主演だった。それがすっごい面白くて。

 お客さんを手玉にとって、自由自在にころころ転がして笑かしてる。あ、入れてもらおうって思って受付に言ったら“オーディション受けてください”っていわれて(笑)。受けた2人とも受かって、もうひとりはどこかほかへ行っちゃいました(笑)。それから40年近く、ついてきてよかったなって思います(笑)」

 前出の渡辺もこう証言する。

「とにかく面白いこと、人を楽しませることが好きなんです。そういうネタを常にキャッチして、いろんな人に放出していく。例えば電車に乗ってつり革につかまっているときも、僕と話してるんですけど、本当は前に座ってる人めがけてネタを語りかけていて“グッ、グッ”笑わせてる(笑)。そうやってたぶん練っているんです、話を」

 そんな根っから明るく見えた三宅でも、不安になったりしたことはなかったのだろうか。小倉が言う。

「SETは芝居をやるたびに、お客さんがちょっとずつ増えていったし、青山劇場を劇団だけでいっぱいにできるぐらいになった。でも少し前に“三宅さん、もう全然弱音をはかないし、ほんとに僕らの前で明るかったけど、どうだったんですか。本当はあのころ”って聞いたら“心配で眠れなかった”って。“15人が俺ひとりについてきて、こんなに俺、責任持てるのかなと思った”って。全然そうは見せなかったですけどね」

「(三宅は)プライベートでも常に人を笑わせることを考えている人」と語る渡辺と小倉 撮影/坂本利幸
「(三宅は)プライベートでも常に人を笑わせることを考えている人」と語る渡辺と小倉 撮影/坂本利幸

 劇団といえば、公演チケットのノルマ性が当たり前の慣例となっている中、SETがメンバーの給料制を目指したというのも有名な話だ。

「売れるには、劇団のやってるミュージカル・アクション・コメディーのレベルが上がらないと、プロの劇団になれない。そのためには将来、必ず給料制にして給料を渡すから、そのぶんバイトの時間を少なくして、レッスンをやろうぜっていうことをずっと言ってたんです」