上野を世界一のピッチャーに

 2度目の五輪が幕を閉じた瞬間、麗華監督はキッパリと現役を退くことを決めた。

「妙子さんという素晴らしい指導者の下で長くソフトボールをやってきた私が、次にやるべきだと考えたのが『若手の育成』でした。目の前には上野がいた。日本のソフトボールには絶対に上野が必要。“彼女を伸ばすのは自分しかいない”と思って日立&ルネサス高崎に誘いましたから、監督としてみっちり教えていこうと決心をしたんです」

3月の鴨川合宿で投球練習をする34歳のエース・上野。麗華監督との心温まるエピソードの数々を語ってくれた。監督に恩返しをしたいと意気込む 撮影/吉岡竜紀
3月の鴨川合宿で投球練習をする34歳のエース・上野。麗華監督との心温まるエピソードの数々を語ってくれた。監督に恩返しをしたいと意気込む 撮影/吉岡竜紀
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 これを機に、彼女は指導者業に専念。新たな一歩を踏み出すことになった。

 麗華監督が「日本ソフトボール界を担う逸材」と信じて疑わなかった上野は九州女子高校(現・福岡大学付属若葉高校)出身の剛腕だ。’82年生まれで当時22歳。174cm・72kgという日本人離れした体躯(たいく)を武器に、最速121km/h(野球の体感160~170km/hに相当)のボールを投げることができた。だが、アテネ五輪は大会中に風邪をひいて体調を崩し、オーストラリアとの3位決定戦で欠場するなど、まだまだ不安定な部分が垣間見えた。

「アテネで金メダルを逃した原因を考えると、やはりピッチャーでした。もっとしっかりしたピッチャーがいれば私たちはより大きな自信を持って戦えたんじゃないかと感じたんです。そのためにも上野を世界一のピッチャーに育てて、自分の母国・中国で開かれる北京五輪を託すしかない。そう考えて、私は上野をアメリカに連れていきました」

 2005年、麗華監督とともに向かった異国で、上野はショッキングな出来事に遭遇する。投球練習をしようとした矢先、アメリカ人ピッチングコーチに止められたのだ。

「あなたは今、投げる気がないでしょう」

 予想外の厳しいひと言が突き刺さった。

「この1球を打たれたら終わりだという責任を感じながら、自信を持ってやりなさい」

 次の言葉にも重みがあった。

「上野はそれまでのソフトボールへの取り組みを反省したと思います。単に速いボールを投げればいいわけじゃない。人間力を高めなければいけないということを学んだはず。そこから上野はガラリと変わりました」と麗華監督は振り返る。

 2005年10月の日本リーグ1部・大鵬薬品戦、2006年10月のシオノギ製薬戦での完全試合達成、2007年9月の日本人初の1000奪三振など、上野は猛烈な勢いで階段を駆け上がっていく。

 そして2008年北京五輪では、冒頭のとおり、日本代表を金メダルへと導く働きを見せた。麗華監督は少し離れたところから教え子の奮闘を見守っていたが、故郷・北京で偉業を果たしてくれたことに心から感謝した。

嫌なことを背負うために私が横にいる

 その上野がその後、燃え尽き症候群のような状態に陥った。北京を最後にソフトボールが五輪種目からはずれたうえケガも重なり、競技続行への情熱を失いかけたのだ。「自分の心がそうとう荒れていた。なかなかモチベーションが上がらなかったと思います」と本人もつらい胸の内を吐露する。

 だからといって、世界一のピッチャーを失うのは、日本にとっての損失以外の何物でもない。麗華監督は教え子をなだめ、励まし、勇気づけながら、ソフトボールへの思いを取り戻させようと試みた。2010年世界選手権(ベネズエラ)を回避したいと上野が申し入れてきたときも「それならいいよ。すべて私が背負うから。逆に行きたくても行かせないよ。あなたは世界一なんだから、嫌なことを背負うために自分が横にいるから」と受け入れ、さまざまな批判の矢面にも立ったのだ。

「自分の気持ちを尊重してもらいながら、うまく引っ張ってもらえました。麗華監督じゃなかったら、自分もここまで頑張り続けられなかった」と、上野自身も指揮官の存在感の大きさを改めて痛感したという。

代表監督は覚悟。逃げられない

 北京の後はエースのみならず、ソフトボール界も多少なりと揺れ動いた。2011年2月には北京五輪金メダル指揮官の斎藤春香監督(現・弘前市職員)が辞任。麗華監督が後を引き継ぐことになった。「代表監督は覚悟。絶対に逃げられない」という妙子さんの言葉を胸に刻みつけ、新指揮官は強いチーム作りに全身全霊を注いだ。上野も代表に復帰し、日本は2012年カナダ、2014年オランダと世界選手権2連覇を達成。五輪という檜(ひのき)舞台からは離れたものの、日本ソフトボールのレベルアップは着実に進んでいたのだ。

「2012年世界選手権決勝のアメリカ戦も、最後にスクイズで勝ったんですけど、麗華は2ストライク・3ボールという追い込まれた状況でバントをさせるという大博打をやってのけた。根っからの勝負師なんです。バントやヒットエンドランなど常日ごろから選手にいろんなことをやらせてますし、ホームランだけじゃ勝てないこともよくわかっている。現役時代の彼女も何でもできる怖いものなしの選手だった。自分自身の経験を存分に生かしているんだと思います。

 一方で緻密さも持ち合わせている。それも選手時代から変わりません。作戦ノートには選手の一挙手一投足や相手の特徴などがこと細かく書いてある。試合前には毎回のように私にオーダーを送ってきますけど、“大丈夫だよ”と前向きに返してます。私に太鼓判を押されるとどこか安心するんでしょう。そんな一面もありますけど、あらゆる面で努力を惜しまない指導者だと感じます」と先輩指導者の妙子さんも麗華監督の有能さを代弁する。

 北京五輪から8年。冬の時代を強いられてきたソフトボールの五輪復帰がついに現実となった。しかも、その舞台は2020年東京だ。日本ソフトボール界にとって、12年ぶりの金メダル獲得は至上命題。誰を監督に据えるかは重要なテーマだった。

 協会は、2015年12月で日本代表からいったん退き、ビックカメラ高崎の監督に専念していた麗華監督の再抜擢を決定。2016年12月から新たな体制で東京五輪へ突き進むことになったのである。