「うちは桜田淳子松田聖子、そして早見優酒井法子など、女性アイドルを数多くデビューさせました。桜田に関しては、『スタ誕』で25社からオファーがあったのですが、彼女は森田の大ファンだったらしく、それで所属を決めたと聞いています」

 時代の流れに乗ったサンミュージックは数々のスターを輩出して「女性アイドル事務所」とも評されることも。そして1980年後半、バブル期を迎えたテレビ局ではトレンディドラマの制作が全盛に。

「アイドルが歌うだけの時代が終わり、お芝居をすることも求められてくるようになったんです。ここから、歌えて芝居もできる二刀流のタレントを育てていくようになりました

ここから始まった「お笑い部門」発足

 そしてバブルがはじけた1990年代序盤には、テレビ番組の予算が目減り。各局で、低予算で制作できるバラエティ番組『タモリのボキャブラ天国』『電波少年』『爆笑オンエアバトル』などが生まれた。そこで、現社長が目を向けたのが「お笑い」だったのだ。

「私がアメリカに留学していたころ、『シンガー・アクター・コメディアン』の三本柱でエンターテイメントが成り立つことを肌で感じたのです」という相澤氏は帰国後、数社での仕事を経験して同社グループ傘下のサンミュージック企画に入社。

 コマーシャル制作やイベント運営に従事しながらも、“お笑い熱”が冷めず、20年前にお笑い部門を立ち上げることを会社に提案。

「歌、お芝居、お笑いのタレントが揃うと利点だらけなんですね。たとえば営業先で前座と司会もできる。当時、東京では7〜12年サイクルでお笑いブームが起こって、必ずスターが出ていました。だから、その波に乗ろうとして、お笑い部門を立ち上げることを直談判したのです」

 しかし、会社の反応はイマイチだったという。

「『うちは吉本さんじゃないんだよ』と一蹴されましたね(笑い)」

 当時、吉本興業がお笑いのプロダクションとしてトップに君臨。これまで歌や芝居で勝負してきたサンミュージックがお笑いをやることに対して、周囲の反応も冷ややかだったという。

「たしかに、私はお笑いが好きではあったけど、ノウハウがなかったんです。それで、森田健作の付き人からお笑い芸人に転向していた、ブッチャーブラザーズにお笑い部門のプロデュースを任せたんです。ここから会社に新しい風を吹き込むんだという気持ちで、とにかく必死でした」

 しかし、設立して5年の歳月が流れても、これといった芽が出ず、会社の会議では常に肩身が狭かったそう。それでも、大好きなお笑いを信じ続け、所属タレントを全力でサポートしてきた。そして、ようやく火がついたのがアノ人だった。

ダンディ坂野

ダンディ坂野ですね。『爆笑オンエアバトル』(NHK)で披露した“ゲッツ”が受けて、ようやく弊社の芸人たちが注目されるようになったんです

 その後は、冒頭でも触れた多くの売れっ子芸人を輩出。こう見ていると、サンミュージックはどの時代も柔軟に対応し、一流のエンターテイメントを生み出していることがわかる。