施設長から、障害者はレストランにも入れないと実状を打ち明けられ、濱田は「うちでよかったら来てください」と思わず言った。20人しか入れない店に、障害者と職員50人あまりが集まった。

濱田は被災地へラーメンを届ける際もできたての温かさにこだわった
濱田は被災地へラーメンを届ける際もできたての温かさにこだわった
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「立って食べている子もいてね、みんなが“おいしい”“おじちゃん、ありがとう”って。その顔を見たら、荒んでいた私の心があったかくなって、本当に満たされていくのを感じたんです」

 ボランティアに目覚めた瞬間だった。自分が作ったラーメンが人を笑顔にする。その喜びが濱田を突き動かしていく。その後、その施設長の縁で、障害者施設や高齢者施設などから声がかかるようになった。施設の厨房は広いから、1度にたくさん作ることができる。濱田は日曜日の営業を休み、施設へ出かけるようになった。もちろん、家族も駆り出される。

 ボランティアを始めた濱田には、心に決めたことがあった。

「ちょうだい、くださいは絶対に言わない」

 見返りはいっさい求めない。材料はすべて持ち出し。それに賛同した地元の農家や同業者が次々と集まってきた。ひとりの力は小さくても、みんな集まれば何でもできる。そして'89年、20数名で『ボランティア仲間 九州ラーメン党』を立ち上げた。

借金返済とラーメン提供の間で…

 濱田にはまだ借金が残っていた。周囲の仲間には、「ボランティアは自分ができることだけすればいい。無理せんでよか」と言いながら、自分には「最大限の無理」を課した。そうでなければ仕事と借金返済とボランティアを続けることはできない。

 何とかしてラーメンを提供するためにお金をしぼりださなければいけない。自分が無理するしかないのだ。考えたあげく、「禁酒肴煙、禁髪帯靴」という奇妙な言葉を作り出し、机の前に貼った。

 酒も肴も煙草もいらない、散髪もしない、服も靴も買わないということだ。自分にかかるお金を減らせばいい。計算すると年間1560杯のラーメンを提供できるとわかった。しかしほどなく、その倍の量のラーメンを無料奉仕するようになると、さすがにどうにもできない。 

 月にあと3万円は必要だった。

 そこで熊本市内の繁華街に夜、出没して、自作の詩を売ろうと考えた。19歳で初詩集を出版。書家としての顔も持つ濱田は、自作の詩を筆で色紙にしたため路上で販売した。

 バブル時代だった当時、市内随一の繁華街では路上販売が流行していた。濱田は「児島獏」と名乗り、靴屋のシャッターの前で1枚1000円、即興で書く場合は相手の意図を聞いて30分ほど時間をもらい、3000円で売った。

「近くの飲食店でアルバイトをしている若い女の子がよくお弁当を持ってきてくれてね。ほかの路上販売者と一緒に食べたりもしました。放浪詩人になったようで楽しかった」

 夢を食べるバクさんは路上の人気者だった。