'79年、一家は熊本市内の川のほとりにあばら屋を借りた。かつて山頭火が住んでいたようなぼろ家を喜んだのは濱田だけ。幽霊が出そうで怖いと、10歳の長女、8歳の双子の娘たちは怯えていた。

「しばらく詩を書いて暮らそうと思っていたら、サラリーマン時代の知人が15人も訪ねてきたんです。どうするつもりなんだ、家族はどうなるんだと説教されました。そこを突かれると私も何も言えなくなる。彼らが全面的に協力すると言ってくれたので、商売を始めるしかなくなりました」

 長年、食品メーカーに勤めていたから扱うのは食品と決めた。故郷・種子島はお茶の産地。そこで九州各地を巡ってお茶作りの名人とも出会い、お茶の販売を始めた。のちに食品卸売業として椎茸や海苔なども販売するようになる。

スーパー1軒をプレゼントされた「天国時代」

 この商売が繁盛し、2年もすると市内に一軒家を購入、運転手つきの車に乗るようにもなった。

濱田夫妻。「恋愛ではなく、詩に惚れたんですよ」と幸子さん
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「贅沢しましたね。服もあつらえていました。子どもたちにはそれぞれ家庭教師をつけて、美容師さんに家に来てもらっていた」

 幸子さんは「天国時代」をそう語る。ただ、濱田はそんな生活に違和感を覚えていた。

「これでいいのかなといつも思っていました。ただ、責任がありましたからね。協力者も従業員もいるのだから、気まぐれで辞めるわけにはいかなかった」

 その後、とあるスーパーチェーンから声がかかり、濱田は悩んだ末に食品コンサルタントとして、その本部に勤務することになった。自分が立ち上げた会社があるので、自ら無報酬を申し出、1年間、その役目を果たした。

 その尽力に対してプレゼントされたのは、スーパーマーケット1軒。それを機に、お茶の会社は親族にすべて譲り、濱田は幸子さんとともにスーパーを経営することに。

 すぐに軌道に乗り、2年後には3店舗に拡大したのだが、気づいたらお茶の会社が莫大な負債を抱えていた。

「全部譲ったのだから私は関係ないんですが、債権者会議に出ていって“私がすべて返済します”と言ってしまったんです」

 いろいろ整理しても数千万円の借金が残った。それを自らかぶり、スーパーも家も売ったが、借金完済にはほど遠い。1か月後、家を出ていかなければならなくなったとき、濱田は離婚届を出した。万が一にも妻に迷惑をかけたくなかったのだ。

「幸子さんは、あなたを見届けたいから一緒にいると言う。娘たちに至っては、“おもしろそうだからついていく”と。古すぎて売れなかったワンボックスカーに最小限の荷物を積んで乗り込みました」

 次女の浩子さん(47)は、悲壮感はなかったと言う。

「私たち娘は全員、中学生でしたから、事情が飲み込めていなかった。ただ、それまで父も母もスーパーで働きづめで、ほとんど一緒にいなかったんです。夕食も子どもたちだけだったし、家族で遊びに行ったこともない。実際は夜逃げなんでしょうけど、珍しく家族でドライブできるという感覚でした」