「“自分大好き”だと思います(笑)。でも私みたいな若輩者がツッコミを入れても笑ってくれる。年は離れているけど、濱田さんとはお友達。子どもたちには、濱田さんみたいな人になると周りが苦労するからならないでほしいけど、濱田さんみたいな人を尊敬できる人間になりなさいと教育しています」

来客におにぎりを配って回る濱田
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 こんなふうに人に慕われている濱田は、どうやってボランティアにのめり込んでいったのだろうか。

「ボランティアという道楽にはまった」

 濱田は幾度もそう言った。

 1944年、種子島に5人きょうだいの長男として生まれた。満州鉄道に勤めていた父が現地で召集されたため、身重の母がひとり、実家に戻って生まれたのが濱田だ。

 10歳のとき、自由研究でガリ版刷りの詩集を作ると、学校で褒められ、「詩人になる」と決意。東京にある大学の文学部へ進学することが決まっていた。だが、高校卒業直前に父が47歳で急逝。4人の弟妹もまだ幼く、末の妹はこれから小学校という年齢だった。父は最後に「末娘が20歳になるまで頼む」と濱田の手を握った。

妻の“男前発言”で退職願

「就職するしかなかったけど、もうみんな決まった後だった。でも残り物に福があったんですよ」

 進学をあきらめてギリギリのところで森永乳業に就職、種子島工場で働き始めた。社内で憧れの君だったのが1歳年上の幸子さん。23歳のとき、長崎に転勤になることを伝えると、幸子さんは「よかね、長崎」と言った。それを機に思い切ってプロポーズ。

森永乳業に勤めていた30代のころ

 夫婦で赴いた長崎で、濱田は営業部に配属された。最初は慣れない都会生活に苦労したものの、1年もたつころには立派な営業マンとなっていた。26歳で副主任、28歳で主任となり、猛烈な仕事人間へと化していく。

 長女に続き、双子の女の子にも恵まれ、大きな一軒家の社宅に住み、夜は接待で酒と麻雀に明け暮れた。典型的な高度成長期のサラリーマンである。その後、熊本に転勤。だが35歳になったとき濱田は、はたとわが身を顧みる。弟妹たちもみんな成人し、亡くなった父との約束も果たした。自分は詩人になるはずではなかったのか。

「幸子さんにその話をしたら、会社を辞めればいいとこともなげに言う。全財産を渡すから、子どもたちと一緒に種子島に帰ったほうがいいと言うと“今度は私が食べさせてあげる”って。そこで翌日には退職願を出していました」

 退職金や持ち株などでかなりまとまったお金が入ってきた。もともと浪費はしないが、お金を使うヒマもないほど忙しい日々でもあった。

 熊本は、自由律俳句で有名な種田山頭火が、一時期住んでいた町でもある。山頭火に憧れていた濱田が熊本に転勤になってから退職したのも納得がいく。