1992年(平成4年)にスタートした『電波少年』シリーズのプロデューサーであり、自ら出演し芸人へ過酷な企画をムチャぶりする“T部長”として恐れられた土屋敏男さん。伝説のテレビマンは、平成は新たな笑いの誕生から始まった、と話す。

バラエティー番組のつくりが変わった

平成が始まったときに出てきたのが“お笑い第三世代”。ダウンタウンは吉本興業が経営するお笑い学校『NSC』の第1期生。ウッチャンナンチャンの師匠は内海桂子・好江さんだけど、寄席ではなくてコントライブ出身。とんねるずは、ウンナンと同じく『お笑いスター誕生!!』から出てきた。

 師匠について下積みするという寄席・演芸場的な残り香がまったくなくなった世代なんです

 彼らの台頭により、お笑い志望者は急増する。

「やはりNSCなどができたことで、平成の30年間で芸人志望者は100倍以上に増えているんじゃないんでしょうか。『M-1グランプリ』を見ると、芸人のレベルの高さ、才能の集まり方は異常だと思いますね。

 バラエティー番組のつくりも変わった。平成が始まったころの出演者はMCを含めて5、6人くらいだったのが、今では“ひな壇システム”によって数倍に。笑いも、芸人同士のチームプレー的なことが求められるようになりました」

 世の中を取り巻く空気も変わった。コンプライアンス(法令順守)が叫ばれ、バラエティーにも厳しい眼差しが向けられる。また、SNSが浸透し「炎上」が広く、素早く「見える化」されるようになった。近年は炎上防止のため、つくり手が表現を自粛することも少なくない。

 そんな現状について土屋さんは、「今は、炎上しないようにボールひとつ分ストライクゾーンの内側を狙って、番組をつくっているんです。確かに安全なんだけど、それをやっていると、どんどんストライクゾーンが狭くなる」と指摘し、こう続ける。

電波少年は“コーナーギリギリってどこだろう?”と考えていました。今まで気がついていなかったところギリギリに投げてみて、“ここも大丈夫だった”と新しいストライクゾーンを発見できる。そうやって生まれたのがアポなし企画やヒッチハイク旅。まあ、ボールになり怒られたこともありますが(笑)、今のバラエティーにはそういうことも必要だと思います」