カウボーイ・カウガールスクールを卒業した子どもたちが、成長した『わが子』を見に来ることも多い。

 磯沼さんがポツリと話す。

「明日は、小学生の男の子が来ます。別れを言いに」

 男の子がミミリンと名づけた牛は、数年たっても乳牛の役割を果たせず、食肉牛として出荷されるという。

「自分が世話をした牛との別れだから、悲しくないはずない。それでも“来るか?”と連絡するのは、見届けることで、命の尊さや食材への感謝を知ってほしいからです」

 この牧場は、(社)中央酪農会議に認定された『酪農教育ファーム』でもある。しかし、そういった立場抜きで、磯沼さんからは「大切な仲間を最後までしっかり見送りたい」という気持ちが、まっすぐに伝わってくる。

「都市型牧場」ならではの民家に囲まれた立地。においと騒音の苦情に対応するため試行錯誤を重ねた(撮影/齋藤周造)
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 高台の広々とした放牧場に行くと、磯沼さんを見つけた牛たちが、のっそりと近づき、しきりに頭をこすりつけては甘えている。

 言葉はなくとも、その姿が物語っていた。どれだけ牛に慕われているかを─。

 牛とともに歩んだ、長い道のりを振り返ってもらった。

覚悟を決めた中学1年

 最寄り駅の京王線山田駅から数分歩くと、磯沼さんが所有する土地が広がる。

 総敷地面積は、実に6000坪あまり。私道を抜けると牧場につながり、敷地内に自宅もある。

「元禄時代だから、350年ほど前ですね。先祖代々受け継いで、僕で14代目。酪農は父の代から始めたので、2代目になります」

 戦後、食糧不足の時代に、八王子が酪農振興地域に指定されたのを機に、父親が農業の傍ら始めたという。

 1952年、男ばかり4人兄弟の長男として生まれた。

「父は無口で黙々と働いていました。母はお勝手仕事と僕ら4人の子育てをしながら、畑や牛の世話をして。忙しい親の姿を見て育ったから、小学校に入ると、当たり前に仕事を手伝っていましたね」

 幼いころから、穏やかで、出しゃばらない性格。その一方、「こうと決めたら一直線」。

 静かなる情熱を併せ持っていたとも。

 酪農業を継ぐことを決めたときも、まさにそう。

「中学1年だったな。祖父の葬式で忙しい父に代わって、初めて乳しぼりを任されたんです。ひとりでバケットミルカー(搾乳機)を使って仕事をやりきってね。そのとき、作業を終えて、心を決めていました。これが俺の仕事だ。一生やるぞって」

 決意は揺らぐことなく、高校は都内で唯一、校内に牧場と牛を所有する、都立瑞穂農芸高校へ進学。その後、東京農業大学短期大学部に入学し、卒業後は父親のもとで働く道を選んだ。

「5年くらいは父のやり方を教わって、勉強させてもらうつもりでした」

 とはいえ、静かなる情熱の持ち主である。じきに、酪農家の若い仲間で集まっては、「未来の酪農」について、熱く語り合うようになった。