正雄 学習院時代の陛下は、議論好きでもありましたね。なかなか自説を引っ込めない。あらゆる分野について話をしましたが、よく相手を論破されていましたよ。

“君はあのとき、こう言っていたけど”と誰が何と発言したのかよく覚えてらっしゃいました。

和雄 私は陛下とは議論したことはなかったけど、よく勉強していて博識でいらっしゃいました。軽井沢でバーベキューをしているとき、肉に蛾のりん粉がかかったことから、常陸宮さまと蛾についての討論が延々と続いたのには、参りました(笑)。

正雄 高等科時代は目白の清明寮という寄宿舎で生活を送っていましたが、自習室でいちばん遅くまで勉強されていたのは陛下でした。

 陛下の家庭教師も兼ねてアメリカからバイニング夫人(注2)が学習院で教えていました。学期ごとに2名ずつ毎週末に夫人の住まいで個人授業も受けていて、私は陛下と同じグループで机を並べていましたが、そこでも陛下はよく勉強されていました。

 課題は当時発表されたばかりの「国連人権宣言」についてです。毎回課題が出され、もちろん、すべて英語でのやりとりでかなりハードでしたが、陛下は一生懸命、勉強されていました。陛下のお考えや思想的な傾向はこのときの影響が強いのではないでしょうか。

和雄 陛下は高等科から馬術部に所属していて、大学になっても続けていたので、テニスにのめり込まれたのは大学の後半になってからですね。

 イギリスのエリザベス女王の戴冠式(昭和27年2月)に出席するため大学を半年以上休んでしまい、単位が足りず聴講生となられました。その後、時間的に余裕ができたからか、本格的にテニスをおやりになりました。

 お住まいの卓球室を、テニス用に改築されたのは、そこまでなさるかと友人ともどもア然としたものです。

 陛下は負けん気も強かったので、それだけ上達を目指しておられたんでしょう。

正雄 私は大学から慶應に進み、その後はアメリカに留学したり、長年ドイツで仕事をしていましたが、たまに電話がありテニスのお相手はしていました。

 アメリカ留学前に、“向こうで必要になるだろうから”と餞別にタキシードをいただいたのはとてもうれしかったです。

 お住まいにうかがうと、採寸してくれる方もいたんですが、私の身体にピッタリで、何の調整もいりませんでした(笑)。このタキシードはその後、20年くらい使わせていただきましたかね。

和雄 当時、夏休みには陛下と軽井沢でご一緒しましたが、上流階級の別荘が多く、そこの子女が集まっていたので、陛下もテニスやダンス、マージャンをされていたものです。

軽井沢で夏休みを過ごされる青春時代の陛下と和雄さん(右端)。陛下のすぐ後ろには美智子さまの姿も。昭和33(1958)年
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正雄 陛下は大学を卒業するころから、お妃選びは意識にあったのではないでしょうか。軽井沢の交友関係に女性もたくさんいましたから、彼女たちの噂話をされていた記憶があります。

和雄 男女交際といっても、当時は恋愛結婚も少なく、知らない男女が自由に交流するという気風はなかったので、友人の姉妹であるとかそういう範囲での交際でした。

正雄 陛下は“私は1億の民の上に立つ者だが、すべての民に平等でなくてはならない”とよくおっしゃっていました。それを支えてくれるお妃は陛下にはなくてはならない人だったと思います。

和雄 そんな軽井沢で、日清製粉の令嬢である正田美智子さんは、清楚で教養もありテニスもできる、マドンナ的存在でした。

正雄 私も軽井沢にご一緒したことはありますが、そういう女性がいるというのは噂で聞いた記憶があります。

 和雄さんは陛下と親しくするうちに、「チャブさん」「ポケ」と呼び合う間柄に。そして、昭和32(1957)年8月19日、軽井沢での「ABCDトーナメント」のダブルスの対戦で、陛下と美智子さまは運命の出会いを─。

美智子さまが陛下と運命の出会いを果たされたテニスの試合。左は美智子さまのペアだったカナダ人のドイル少年

和雄 陛下は美智子さまとカナダ人少年のペアに負けたのですが、“あんなに正確に、粘られたら、かなわないね”と負けん気が強いのに、爽やかにおっしゃったのは今でもよく覚えています。

 だからもし、あのとき陛下が試合に勝っていたら、美智子さまに対する印象は変わっていたかもしれません。

正雄 このころから陛下のことはすべて弟に任せっきりでその後の婚約や成婚に至る話は、当時はほとんど知りませんでした。

和雄 おふたりの婚約まで私が電話の取り次ぎ役となり、キューピッドということになっていますが、陛下は私が単に暇だったから指名されたのだと思いますよ(笑)。