30歳の声が聞こえるころ、ようやく仕事も安定期に入った。バブル後期には所沢に70坪の土地を買い、家も建てた。とはいえ、作画中はお昼に起きて夜中の3時まで机にしがみつきっぱなし。時間を惜しみ、トイレすら走って行くほどだった。

「人を入れりゃいいんだろうけど、こっちはせっかちな東北人。手も早いから、アシスタントの作業が遅いと、つい自分で描いてしまう。最終的に、俺とアシスタント2人の3人で週刊を回してたのかな。普通は4、5人、多いところは20人近く入れますから」

 週刊連載を持ちながらこの体制は驚異的だ。'94年に講談社に入社し、守村さんを担当していた編集者の金井暁さんのエピソードからも、当時の状況が浮かび上がってくる。

「そのころ、守村さんは33歳か34歳。新卒で『モーニング』に配属されて、担当させていただくということで、ご挨拶に伺ったんです。全くこちらを見ずに原稿を描かれていて、後背筋が発達した背中に向かって、高校生のときから守村さんの漫画が好きでなんて話を一方的にしゃべったのを覚えています。

 お暇を告げたときに初めて振り返られて、“根性のなさそうな顔してるから、すぐ辞めそうだな”とひと言。くるりと振り返るとすぐに原稿を描き始められて、とにかくすごい! というのが第一印象です」

漫画を描く生活に嫌気がさす

 読者に愛される作品を生みだす一方、時間とプレッシャーに追われる日々は続いた。

「若いころは自分のスタイルも確立できていなかったし、常に描けない、できないって自分がいたからね。一方で、金を稼ぎたい、いい女と付き合いたい、みんなが感銘を受けるような漫画を描きたいという野心もあったよ」

 裏腹な気持ちをガソリンに、30年近く走り続けた。しかし、47歳にして毎週、漫画を描く生活に嫌気がさし、描けなくなってしまう。

「仕事に対するプライドも、作品や読者に対する責任もあるからムキになって描いていたけど、最後のほうは“この連載が終わったら、しばらく仕事なんかするものか!”と思いながら描いてたよ」

 仕事に区切りがついたことで、新しいことを始めようと丸太小屋製作の修業のため新潟に赴き、数か月を過ごした。

2007年3月から丸太小屋造りを開始。重量4トンのユンボ、その名も「鉄人」で丸太を吊って積み上げた
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 その後、時間に追われない生活を求めて永住の地を探し、北は北海道、南は阿蘇へとキャンピングカーを走らせる。なかでも気に入ったのが瀬戸内だ。しかし、行き交うフェリーを眺めつつ、岸壁から釣り糸を垂らしているとき、こんな感覚に襲われた。

「デロデロデローって、日差しで溶けたソフトクリームが手に垂れるような感覚があってね。こりゃ、ダメだ! と。こっちはせっかちだし、締め切りに追われる生活が沁みついてるから、自分の時間と合わなさすぎるって。憧れだけで越しても失敗するわな」

 地方の不動産業者にも連絡を取り、すすめられた場所に出向くが、その多くは業者が開発した別荘地。自給自足を目論む守村さんの目には魅力的に映らなかった。東北から南下し、福島県の自治体を渡り歩いているとき、巡りあったのがこの場所だ。

「役場のあんちゃんが、“どうせ出て行っちゃうんだから、やめたほうがいいですよ。ここ、電気も水道もきてないんですから”って切々と訴えるのがおかしかったな。でも、ほぼ迷わなかった」